7-12 <九段の丘> 

神の業が現れるため

生まれつきの盲人を前にして弟子たちが議論していた。これは誰の責任か、本人か両親か?ひとは因果応報を聞いて納得する。妙に納得し満足する。何も変わらないのに。しかしイエスさまは次のようにおっしゃる。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ福音書9:3)彼は両方を否定して神さまを指す。二者択一を迫られて、第三の方向指し示すのは非凡だ。

盲人牧師の熊谷鉄太郎先生は少年のころ、教会へ行ってこの聖書の話を聞かされ、飛び上がらんばかりに驚いたという。この時からひがんでいた少年は求道をはじめた。

人はすぐにそれは誰の責任か、と過去をほじくり出そうとする。それが分ったところで、その人の障害がなくなるわけではない。障害児をつかまえてその原因をやたらに訊ねるひとがいる。やじ馬の興味でしかない。実に失礼な話だ。

だが主イエスは人の目をより未来へと向けさせる。この人のこれからの生き問うのだ。だれがどうしたこうしたとつきつき合い、なすり合うのではなく、神さまのみわざのためにこれからの現実を生きる人であるかどうかを問題にするのである。人は誰しもが過去を背負っていきている。しかし、それを投げ出したい重荷と消極的に思うか、あるいは自分に与えられた恵みと積極的にうけとめるか、そのどちらかでその人の未来が変わってくる。

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