8-9 <九段の丘>

信仰に入るまでの手続き

信仰的に霊的に力強い説教を聞いて、あなたは心打たれ感動する。その後で「ああおもしろかった。。。ためになった。。。来週も続けてお話を聞きに来よう」と言うだけでは、しかしながら何もならない。その説教が即神の言葉になるわけではない。聖書について、どんなに説明を聞いても、それだけで、自分でほうとうに聖書をよまなければ、聖書は神の言葉になりまっせん。

だから昔、A牧師は「わたしの言うことばをそのまま神の言葉ととっては困ります。『きょうの説教はおもしろかった、つまらなかった』で終ってもだめです。わたしの説教が多少でも刺激になり、自分で聖書を読み、自分で聖書を吟味する、ということであれば、そこで初めて神の言葉になります」新約聖書にもそのような記事がでています。

「人々は、心から教えを受け入れ、はたしてそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。そういうわけで、彼らの内の多くの者が信者になった」

パウロはべレヤに着いて、ユダヤ人の会堂で説教をしました。そこの人々は、パウロの説教を熱心にききましたが、パウロの言うことが本当に正しいかどうか聖書を調べました。どんなに説教者の話が上手で感動的であっても、それはそのまま真にうけて、それだけで信仰に踏み切ることは軽率だと言わなければなりません。話を聞いた人は、聖書とはそういう深い意味をもっているのか、そういう大きな力があるのかと、自分で直接聖書に当たってみて、納得して、それではじめて信仰に入るのでなければだめだ。

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