10-18 <九段の丘>

生きるために必要

人間のからだは、毎日の口から入るものでつられている。当然と言えば当然。従ってきれいな水と空気、それに健全な食品がどしても大切になる。それによってつくられるし、それ以外でつくられようもないからである。神経質すぎる必要はないが、口から入るものに対して注意をはらわなければならない。
いまの子供たちは多忙だ。学校へ、塾へ、スポーツ・クラブへと出かけていく。すべての子供たちではない。が、そのための費用を稼ぐのに母親はパートに出る。「お友達がいませんので」とか「本人が行きたがりますので」とかいう理由を聞く。親たちには相変わらず塾神話があり、塾に入れておきさえすれば安心だという。それで何か不祥事でも起こればオロオロし、学校や塾に責任転嫁する。

何が何でも有名校に行き一流と言われる企業に入りさえすれば、子供が幸せになれると思い込んでいる。果たして人生はそんなに単純だろうか?人生は、知識を詰め込み、体を鍛えても、それで人間が出来上がるものでもない。そこにもう一つ大切なものが加わらなければならない。
『主なる神は、土の塵でひとを形作り、その鼻に命の息を吹き入れらてた。ひとはこうして生きるものとなった』(創世記2:7)
神の命の息の吹き込みがなければ、人間は木偶ならぬ土偶だ。逆に言えば、泥人形にすぎない人間が、尊い価値ある存在になるためには、神の一息が必須となる。
最近、「知育、体育、徳育」と盛んに言われるようになってきた。文科省あたりでは<徳育>を教科化しようとする動きがあると聞く。今でも十分なのに、学校教育の中で更に批判精神を骨抜きにして、全体に奉仕する素直なロボットのような国民を造ろうとしている。どこかの国を嘲笑えない愚策だ。

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