1-31 <九段の丘>

                  福音によって
 「この世にはおもしろくないどころか悩ましいこと、辛いことがある。愛があるべきところに憎しみが、協力があるべきところに高ぶりと非難とが、神と真理への服従があるべきところに投げやりと無責任とが・・・・・こういうお互いの問題は、集中豪雨のようにわたしたちの心を打ち、どうしようもなく暗い、神の愛も見失われ、死んだような気持ちにしてしまうものである。
 『いたずらに信じている』とは、もはや、その信仰が力を発揮していない、役にたっていないということであるが、外見的には、一応信者としての形を保っていても、実は、あの心の、どこかの土砂崩れのため、その信仰は形だけのものになってしまうという危険である。」(鈴木正久『主よ、み国を』より)

 

 

 形だけの信仰ほど無駄で、邪魔なものはない。何のための信仰なのか。あるどちらかというと大きな教会の役員が、ある教会員に奉仕の協力をお願いしたところ、思いがけない返事が返ってきた。「わたしが、この教会に籍をおいているのは、奉仕をするためではありません。まったくその反対です。つまり大勢いるので自分がやらなくていいと思ったからです」言い訳にならない、情けないリアクションである。
  何かと比較されるのが、日本と韓国。教会もまた然り。その違いは何かと言えば、もちろん例外はいろいろあるが、彼ら韓国のキリスト者は限りなく聖書の約束を信じ、精いっぱい神さまの命令に従おうとする。日本の多くのキリスト者のように隣の人の様子を見て手抜きをするようなことはしない。そう、神さまと自分の関係を大切にするのである。

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です