2-28 <九段の丘>

                                           神礼拝とは
  確かに説教は大切です。しかし、日曜日に教会で神さまを礼拝するとは、単に説教を聞くことだけではありません。メッセージを聞くだけならカセットテープでもTV礼拝でも構わないわけです。わざわざ教会まで足を運ぶ必要はありません。しかし、教会に集まって同信の友と心一つにして礼拝を奉げるのは、神さまのお求めになることだからです。そして礼拝は、オルガンの前奏から後奏までを一つのものとして受け止めるのです。そこに盛り込まれている礼拝のプログラム一つ一つが神礼拝全体を形成しているのです。そこに、一つとして無駄なものはありません。
  やむをえない事情で、遅刻する場合がありますが、そうでなくて礼拝に遅れることは、あまりほめられたことではありません。昔から、カトリック教会などに比べプロテスタント教会は、説教に重きが置かれているがゆえに、信徒の中には、説教の時間に合わせて遅刻してくる方々がいらっしゃいました。これは大変な思い違いです。
  また、後奏も待たず、そそくさと帰られる方もいます。もちろん、特別な御用が待っている場合は仕方ありません。ですから一概に批判すべきではありませんが、祝祷をしている間に姿を消す方には、牧師の方が苦笑してしまいます。<・・・そんなに急いで、どこ行くの?>
  礼拝の形も、今日いろいろです。わたしたちが慣れ親しんでいる礼拝式は、それなりの歴史があって今の形になったのは事実です。これについては2つのことが言えます。だから、この形をしっかりと守っていこう、とする考え方が一方にあります。しかし、もう一つは、それでも時代と共にわたしたち自身が変化してきているので、当然わたしたちの心に響く感動的な礼拝を模索していくことも必要だということです。

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