8-28<九段の丘>

                                  神の愛を受ける
  林文雄の伝記本を読んでいます。救ライに一生をささげた人です。昭和2年の事です。医者としてライ病院に働きの場を求め、東村山にある公立ライ療養所全生病院(現・多磨全生園)に就職し、多くのショックを受けながらも、信仰が問い直され、深められていきます。
 半端でない光景だったと正直思ったと記されています。・・・・・うみにまみれてくずれた顔、鼻柱が欠けてしまったグロテスクな顔、眼球がえぐりとったお化けのような顔、手のない人、足のない人、全身ほうたいに包まれて棒のように転がっている人々の群れがひしめいていた・・・・。
 働きはじめて、しばらくして、人格的に優れたキリスト者でもある光田健輔院長との話で、感想を述べているところがあります。
 「わたしは今まで、立派な行いこそがキリスト者であり、また、喜びにつながる者であると信じていました。ところがどうでしょう。(ここでは)一日何もできない盲人や、足なえや、寝たきりの重症患者たちが、喜びにあふれて、静かな平安に、心ゆくばかりひたっているのです。」「・・・・たとえば、いままでは大きいもの、美しいもの、明るいもの、そして何かキリスト教的な行いが、キリスト者の資格であると、考えてきたのです。ところが、なんと、小さいもの、弱いもの、醜いもの、動けないものの中に、『神の愛』が宿っているのを、この目で見ました。」と告白しています。
 気になる聖句が、少し理解できるようになりました。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(第1コリント12:22)。神さまの恵みを100%いただくためには、わたしたち自身100%空しくなることが重要だという事です。神さまの祝福を受ける最もふさわしい条件が、実はわたしたちの<虚しさ・弱さ>だという事でしょう。

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