1-29<九段の丘>

                                               祈りとは
 もう40年以上も前のことである。某先生は大学改革闘争の最中、学部長であった。学生たちに部屋に軟禁され改革を迫られたりした。とうとう心筋梗塞を起こし危篤状態に陥って面会謝絶。自分はプロテスタント、奥様はカトリックの信徒だったので、身内と牧師と神父だけが病室に入ることをゆるされた。
 牧師は祈った。「この方は大事な人、どうか病を癒し、一日も早く職務に復帰できますように」。だが祈りの途中で患者の心臓に変化があらわれ、このまま続けると死ぬとドクターストップがかかった。
 神父も、「この方はいつ死んでもおかしくない重病です。生きるにしても死ぬにしても神さまにお任せします」と祈った。すると彼の心臓は次第に穏やかになってきた。この先生は、人間の幸福というものは必ずしも健康と一致するものではないと、感じたという。
 祈りは願いではない。だが勘違いする。言葉に偽りはない。だが型通りすぎる。わたし(髙田)の神学校卒業時の教団議長であった鈴木正久牧師が病に倒れた。病床を訪ねて来る牧師たちの型通りの祈りや決まり切った聖書の箇所の朗読に怒り、その中にあって、唯一浅野順一先生(青山学院の旧約学の教授、美竹教会牧師)の祈りには慰められたと家族に語ったという

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