九段教会コラム

このコーナーでは、教会からのコラムや行事等についての記事を投稿します。(不定期更新)


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10-15<九段の丘>

2017年10月14日

                                      祈 り
1.選ばれて公職にある人々のために。「主よ、わたしたちの指導者たちを祝福してください。彼らが謙虚で公正に権力を行使し、困っている人々に奉仕できるようにお助けください。弱者や無力な人々を守る政策を実行できるように、彼らをお導きください」。

2.学校のために。「お父さま、すべての教師を祝福してください。わたしたちの子供に教育を授ける彼らに知恵と思いやりの心をお与えください。生徒たちが学び、成長していくのを助けてください。彼らを安全に守り、あなたの近くにお引き寄せください」。

3.隣人のために。「イエスさま、近隣のすべての家庭を祝福し、あなたの平和で満たしてください。すべての家庭が、親と子が互いに愛し合い、お互いのために命を惜しまぬミニ教会となりますように。すべての家庭が誘惑と危害から守られる避難所となりますように」。

4.わたしたちの教会のために。「聖霊なる神さま、わたしたちの牧師、長老・幹事・役員、すべての信者たちを祝福してください。わたしたちが互いに愛し合いますように。わたしたちを強め、わたしたちの町であなたの愛の証し人となることができますように強めてください。あなたのことを人々に告げる知恵と勇気をあ与えください」。

5.現代の平和のために。「主よ、わたしたちの街に平和と一致をもたらしてください。差別、貧困、犯罪、暴力によってもたらされた被害を回復してください。主よ、すべての意見の不一致をいやしてください。あなたの愛がどんなに暗い場所にも行き届きますように」。

『イエスさま、あなたの助けによってわたしが自分の町のために毎日祈ることができますように』                           
                                            (『毎日の黙想』2017.7.18より翻案)


10-8<九段の丘>

2017年10月07日

                                       僧と女性
 ふたりの仏教僧が、僧院へ行く途中、川岸で大変美しい女性を見つけました。ふたりのように、その女性も川を渡りたがっていましたが、水は深すぎました。そこで僧のひとりが彼女を背負い、川を渡してやりました。
 仲間の僧はひどく憤りました。まる2時間、<聖なる掟>をなおざりにしたと責めました。おまえは僧であることを忘れたのか?なぜ女の体に手を触れたのか?おまけに女を背負って川を渡ったではないか?人々はなんと言うだろう?<聖なる宗教>の評判を落としてもいいのか?など、など、など。
 掟を破った僧は、いつ終わるともわからぬ説教を忍耐づよく聞いていました。ついに声を上げました。「兄弟よ、わたしはあの女性を川岸に下ろしました。あなたはいつまで彼女を運んでいるのですか?」
 アラブの神秘家、アブ・ハッサン・ブジャンジャは言っています。「罪の行為は、罪の望んだり思ったりすることよりはるかに害が少ない。一時的に快楽に身を任すことと、それを心で絶えず思い続けることとは、完全に違うのだ。」
 宗教を信じる人々が、他の人の犯す罪について絶えず考える時、それは、罪の行為が罪人に与える以上の快楽を自分に与えているのではないか。
                                        (アントニー・デ・メロ『小鳥の歌』より)

  以上は、イエスさまの以下のお言葉に通じるものがある。「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者は誰でも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5:28)
  行いの罪にまさる思いの罪、他者をさばく罪の深さを考えさせられます。


10-8<九段の丘> 

2017年10月06日

                            僧と女性

ふたりの仏教僧が、僧院へ行く途中、川岸で大変美しい女性を見つけました。ふたりのように、その女性も川を渡りたがっていましたが、水は深すぎました。そこで僧のひとりが彼女を背負い、川を渡してやりました。

仲間の僧はひどく憤りました。まる2時間、<聖なる掟>をなおざりにしたと責めました。おまえは僧であることを忘れたのか?なぜ女の体に手を触れたのか?おまけに女を背負って川を渡ったではないか?人々はなんと言うだろう?<聖なる宗教>の評判を落としてもいいのか?など、など、など。

掟を破った僧は、いつ終わるともわからぬ説教を忍耐づよく聞いていました。ついに声を上げました。「兄弟よ、わたしはあの女性を川岸に下ろしました。あなたはいつまで彼女を運んでいるのですか?」

アラブの神秘家、アブ・ハッサン・ブジャンジャは言っています。「罪の行為は、罪の望んだり思ったりすることよりはるかに害が少ない。一時的に快楽に身を任すことと、それを心で絶えず思い続けることとは、完全に違うのだ。」

宗教を信じる人々が、他の人の犯す罪について絶えず考える時、それは、罪の行為が罪人に与える以上の快楽を自分に与えているのではないか。
                                        (アントニー・デ・メロ『小鳥の歌』より)


9-24<九段の丘>

2017年09月23日

                                        祈りを実行する

 かの偉大な思想家のウイリアム・ジェームスは、われらが祈るのは、そうせずにおられないがゆえに祈るのだ、と言って、更に次のように述べています。
「わたしたちは、自然科学の高度に発展したこの時代に、祈りの効果について実にさまざまな議論を聞きます。ある人達は、科学的根拠を持って、祈りなどくだらないと言い。わたしたちが祈るべきでない多くの理由を提示します。ほかの人達は、反対に、なぜわたしたちが祈るべきかの理由を熱心に述べるのです。ところが、ほんの一握りの者たちだけが実際に祈るのです。彼ら理由を聞かれます。答えは単純です。『わたしたちは祈らざるをえないので祈るのです』」

 祈りほど信仰生活において基本的かつ実際的なものはありません。祈らずに祈りの研究をしても、自らは決して幸せになれません。幸せになりたいのなら、今すぐ実行することです。次に祈りの処方箋を個条書きにします。
①まず、全能の神さまにあなたの問題を申し上げること。包み隠さず。
②そのすべてを神さまが聞いてくださったことを信じること。
③忍耐強く神さまを待ち望むこと。
④神さまが、日常生活のさまざまな場面で、あなたの心の中に語りかけてくださる「確信の言葉」をいただいたら、即立ち上がり行動すること。
 以上を、小さい課題から、祈りによって解決をいただき、より大きな課題に取り組み、解決していきましょう。


9-17<九段の丘>

2017年09月16日

                                      最大のギャンブラー

列王紀上17章に、預言者エリヤがサレプタのやもめに信仰の一歩を踏み出すように求めた話が載っている。飢饉で、彼女にはもはや最後の一食分しか食べる物は残っていなかった。このような時に預言者が思いがけず現れ、その食料を分けて欲しいと頼んだ。「これがわたしたちに残っているすべてです」と彼女は抗議した。「これをたべてしまえば、息子とわたしは死ぬのを待つばかりです」

「このことを約束しよう」とエリヤは言った。「もしわたしに分けてくれるなら、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」彼女はこの言葉に賭け、神さまの約束は成就されたと書かれている。

感情におぼれず理性を求める現代社会では、これはいわゆる信じがたい聖書の話の一つにすぎないと言えるかもしれない。クリスチャンでさえ、時にはこう考えている自分に気づくものだ。「いい加減にしろ。ウソだろう!」

しかし神さまはそういうお方なのだ。現代では神さまの働きはこれほど奇蹟的でないにしろ、神さまこそ<与え主>であられ、わたしたちの必要を満たしてくださる方なのだ。

以上のことは、信仰がいつの時代にも一つの賭けであることを示している。クリスチャンは賭け事はしない、ある種の優良な人々である。けれど、それはウソかもしれない。なぜなら、クリスチャンこそ最大のギャンブラーで、自分の人生を神さまの約束に賭けていくのだから。あのサレプタの女は預言者エリヤが与える神さまの約束に賭けた。そして息子ともども命をながらえた。

わたしたちはどうか?不信仰の塊か?わたしたちの教会は大胆に賭けているか?