九段教会コラム

このコーナーでは、教会からのコラムや行事等についての記事を投稿します。(不定期更新)


9-24<九段の丘>

2017年09月23日

                                        祈りを実行する

 かの偉大な思想家のウイリアム・ジェームスは、われらが祈るのは、そうせずにおられないがゆえに祈るのだ、と言って、更に次のように述べています。
「わたしたちは、自然科学の高度に発展したこの時代に、祈りの効果について実にさまざまな議論を聞きます。ある人達は、科学的根拠を持って、祈りなどくだらないと言い。わたしたちが祈るべきでない多くの理由を提示します。ほかの人達は、反対に、なぜわたしたちが祈るべきかの理由を熱心に述べるのです。ところが、ほんの一握りの者たちだけが実際に祈るのです。彼ら理由を聞かれます。答えは単純です。『わたしたちは祈らざるをえないので祈るのです』」

 祈りほど信仰生活において基本的かつ実際的なものはありません。祈らずに祈りの研究をしても、自らは決して幸せになれません。幸せになりたいのなら、今すぐ実行することです。次に祈りの処方箋を個条書きにします。
①まず、全能の神さまにあなたの問題を申し上げること。包み隠さず。
②そのすべてを神さまが聞いてくださったことを信じること。
③忍耐強く神さまを待ち望むこと。
④神さまが、日常生活のさまざまな場面で、あなたの心の中に語りかけてくださる「確信の言葉」をいただいたら、即立ち上がり行動すること。
 以上を、小さい課題から、祈りによって解決をいただき、より大きな課題に取り組み、解決していきましょう。


9-17<九段の丘>

2017年09月16日

                                      最大のギャンブラー

列王紀上17章に、預言者エリヤがサレプタのやもめに信仰の一歩を踏み出すように求めた話が載っている。飢饉で、彼女にはもはや最後の一食分しか食べる物は残っていなかった。このような時に預言者が思いがけず現れ、その食料を分けて欲しいと頼んだ。「これがわたしたちに残っているすべてです」と彼女は抗議した。「これをたべてしまえば、息子とわたしは死ぬのを待つばかりです」

「このことを約束しよう」とエリヤは言った。「もしわたしに分けてくれるなら、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」彼女はこの言葉に賭け、神さまの約束は成就されたと書かれている。

感情におぼれず理性を求める現代社会では、これはいわゆる信じがたい聖書の話の一つにすぎないと言えるかもしれない。クリスチャンでさえ、時にはこう考えている自分に気づくものだ。「いい加減にしろ。ウソだろう!」

しかし神さまはそういうお方なのだ。現代では神さまの働きはこれほど奇蹟的でないにしろ、神さまこそ<与え主>であられ、わたしたちの必要を満たしてくださる方なのだ。

以上のことは、信仰がいつの時代にも一つの賭けであることを示している。クリスチャンは賭け事はしない、ある種の優良な人々である。けれど、それはウソかもしれない。なぜなら、クリスチャンこそ最大のギャンブラーで、自分の人生を神さまの約束に賭けていくのだから。あのサレプタの女は預言者エリヤが与える神さまの約束に賭けた。そして息子ともども命をながらえた。

わたしたちはどうか?不信仰の塊か?わたしたちの教会は大胆に賭けているか?


9-10<九段の丘>

2017年09月09日

                                       やはり愛でしょう

「信仰と希望と愛のうち、最も大いなるものは愛である」(第一コリント13:13)。信仰はすばらしい。信じる心はすばらしい。人間、希望を失ったら生きていけない。希望があればこそ、現実がいかに厳しくても生きていける。だから、信仰も希望も愛も、等しく得難いものである。けれども使徒パウロが主張する。信仰よりも愛。希望よりも愛。愛が最も説得力がある。 愛はやさしい。愛は親切。愛はゆるし。愛は裁かない。愛は支える力。愛は包み込む。愛は温かさ。・・・無神論者でも無信仰者も、愛の行う力には無条件で認めざるをえない。

「よいサマリヤ人」のたとえにおいて、状況説明は極めて簡単だ。追いはぎ強盗に身ぐるみ剥がされ、半死半生になったユダヤ人にとって理屈はいらない。ことさらに登場人物に条件を付けて説明する必要もない。すべては明らかだ。

今日の教会において、この譬えが躓きになっていないかどうか。躓きとはギリシア語でスカンダリオンのこと。そこから派生した言葉がスキャンダル。人々に躓きをあたえるのがスキャンダル。今日の、教会とキリスト者が、この世にあってよいサマリヤ人になりきっているかが問われる。「地の塩」「世の光」になっているかどうか。理屈はいらない。

問題は、信仰ゆえに、教会規則。掟ゆえに、人を裁き、人を躓かせること。そのようになった時、教会は死ぬ。教会は無用の長物になり、人々から捨てられてしまう。現に、英国の礼拝堂には閑古鳥が鳴く。ドイツの教会、特にカトリック教会は、一教会平均50名弱の出席者。その3割ほどが今まさに閉鎖されようとしている。正教会やプロテスタント教会が購入を申し出たり、美術館、コンサートホール、レストランに衣替えする所もあるという。
教会の教会たる、あるべき姿を常に思い浮かべることが必要。


9-3<九段の丘>

2017年09月03日

              エキスパート
 スーフィー派に伝わるお話。
 死んだと思われたある男が、友人たちによって墓地へと運ばれてまいりました。棺が墓穴におろされようとする時、男は突然生き返り、棺のふたを叩きはじめました。
 棺が開かれ、男は尋ねました。「あなた方は一体何をしているのですか?」彼はとり囲む群衆に言いました。「わたしは生きています。死んではいません」
 男の言葉に、皆は驚いて沈黙しました。会葬者のひとりが、やっと口を開きました。「友よ、医者も導師もあなたが死んだことを証明しました。エキスパートが間違えるはずはありません」
 そこで男は無理やり棺に閉じ込められ、釘を打たれ、決められたとおりに埋葬されました。 
 防衛のことは国に、医療のことは医者に、犯罪のことは警察に、学校のことは教師に、政治のことは役人と政治家に、ロケット打ち上げや原子力のことは科学者に任せれば安心だと思っているところが、わたしたちにありはしないか。
 以前、総合病院で2日続けて、同じような抗生物質の薬を、別々の医師から処方されました。さすがのんきなわたしも、薬局でそのことを問いただし当日分を廃棄しました。お年寄りとか子供だったら、そのまま素直に薬を持ち帰り、2倍の薬を飲み、大事に至ったかもしれません。コワイことです。
 打ち上げた衛星が宇宙のゴミとなり、医療ミス、原発トラブルが実際に起こる。わたしたちは常日頃から、周囲の人々への関わりを大切にし、専門家を盲信せず、監視を怠ってはならないと思います。


8-27<九段の丘> 

2017年08月26日

                                                  理想に近づく
 かつてプロ野球で「安打製造機」の異名をとった打撃の名手、張本勲氏のところに、若手選手が相談に来た。
 「張本さん、理想のバッテイング・フォームについて、教えていただきたいのですが。」
 この質問に対して、張本氏は、こう答えた。
 「理想のバッテイグフォーム?
  もし、君がそれを知りたいならば、 一晩中、素振りをしなさい 
 一晩中、素振りを続けて、 疲れ果てたときに出てくるフォーム、
 それが、君にとって一番無理のない  理想のフォームだよ。」
 このエピソードは、大切なことを教えてくれる。
 われわれは、いつも、成功するための普遍的な方法があると思い、その理想的な方法を、安易に身につけたいと考えてしまう。(『フォーブス』No.39 2017.10 p.21のH.T氏の記事より) が、果たして、そんな調子のいい方法で 理想が身に着けられるものだろうか。
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 ふとこんなことを考えた。聖書の通読は、野球の素振りのようなもの。ともかく理屈を言う前に、聖書を読み続ける。分かっても分からなくても読み続ける。理屈を云々は、そのずっと後。急がば回れ。
 自分から聖書に問いかけるのはずっと経ってから。どんな謙虚そうな質問でも結局自己主張でしかない。読んで、読んで、読み続けることによって、やがて神さまが聖書のみ言葉をもってあなたに語りかけてくるまでになろう。