九段教会コラム

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9-10<九段の丘>

2017年09月09日

                                       やはり愛でしょう

「信仰と希望と愛のうち、最も大いなるものは愛である」(第一コリント13:13)。信仰はすばらしい。信じる心はすばらしい。人間、希望を失ったら生きていけない。希望があればこそ、現実がいかに厳しくても生きていける。だから、信仰も希望も愛も、等しく得難いものである。けれども使徒パウロが主張する。信仰よりも愛。希望よりも愛。愛が最も説得力がある。 愛はやさしい。愛は親切。愛はゆるし。愛は裁かない。愛は支える力。愛は包み込む。愛は温かさ。・・・無神論者でも無信仰者も、愛の行う力には無条件で認めざるをえない。

「よいサマリヤ人」のたとえにおいて、状況説明は極めて簡単だ。追いはぎ強盗に身ぐるみ剥がされ、半死半生になったユダヤ人にとって理屈はいらない。ことさらに登場人物に条件を付けて説明する必要もない。すべては明らかだ。

今日の教会において、この譬えが躓きになっていないかどうか。躓きとはギリシア語でスカンダリオンのこと。そこから派生した言葉がスキャンダル。人々に躓きをあたえるのがスキャンダル。今日の、教会とキリスト者が、この世にあってよいサマリヤ人になりきっているかが問われる。「地の塩」「世の光」になっているかどうか。理屈はいらない。

問題は、信仰ゆえに、教会規則。掟ゆえに、人を裁き、人を躓かせること。そのようになった時、教会は死ぬ。教会は無用の長物になり、人々から捨てられてしまう。現に、英国の礼拝堂には閑古鳥が鳴く。ドイツの教会、特にカトリック教会は、一教会平均50名弱の出席者。その3割ほどが今まさに閉鎖されようとしている。正教会やプロテスタント教会が購入を申し出たり、美術館、コンサートホール、レストランに衣替えする所もあるという。
教会の教会たる、あるべき姿を常に思い浮かべることが必要。