九段教会コラム

このコーナーでは、教会からのコラムや行事等についての記事を投稿します。(不定期更新)


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9-4<九段の丘>

2016年09月04日

  旅行かばん
 1970年代はじめの、留学していた頃、休暇になると日本まで帰れないので藤田正武牧師のいるコロラド州デンバーを訪れました。(アメリカではほとんどの州が州都と経済等の中心地は別なのが普通です。が、コロラド州だけが例外で、二つが一つになっている。)
   ある大金持ちの家に招待されたことがありました。冬の家は町の一等地にあり、こんもりとした森の中といった風情。道路を隔ててお向かいの家がかろうじて見える。夏の家は空が広く見える、郊外の広大な敷地の丘の上にあった。背後には私設のゴルフコースまで持っていた。わたしはその金持ちの所有する会社名を聞いてすぐにユダヤ系であることに気が付いた。
 今でこそ旅行の時、実に様々な種類のスーツケースを選ぶことができる、ありがたい時代である。昔は、少ない種類しかなかった。駅などでの扱いの荒々しさは、今も昔も変わらない。それでも50年前は比較的穏やかなものだったが、ジャンボジェットの大量輸送時代を迎えると扱いは一段とひどくなった。見ていると5つも6つもスーツケースを無造作に重ねて運んでくる。受難時代だ。そんなところにも目をつけ、時代を先取りした会社が、S社ではなかったか。
 この会社の名前こそSAMSONITE[サムソナイト]。昔からオフィス用品、とくに折り畳みのスチール椅子とかスーツケースでは世界で指折りの会社。これは素晴らしいネーミングだと思う。サムソナイトとは「サムソン」から来ているSamsonite、「サムソン人」、「サムソンのような」という意味になる。サムソンとは、ご存知旧約聖書に出て来る代表的な士師の一人。映画『サムソンとデリラ』でも有名。怪力の持ち主。まさに丈夫な製品のイメージにピッタリ。興味のある方は、旧約聖書の士師記13章から16章をお読みください。

8-28<九段の丘>

2016年08月27日

                                  神の愛を受ける
  林文雄の伝記本を読んでいます。救ライに一生をささげた人です。昭和2年の事です。医者としてライ病院に働きの場を求め、東村山にある公立ライ療養所全生病院(現・多磨全生園)に就職し、多くのショックを受けながらも、信仰が問い直され、深められていきます。
 半端でない光景だったと正直思ったと記されています。・・・・・うみにまみれてくずれた顔、鼻柱が欠けてしまったグロテスクな顔、眼球がえぐりとったお化けのような顔、手のない人、足のない人、全身ほうたいに包まれて棒のように転がっている人々の群れがひしめいていた・・・・。
 働きはじめて、しばらくして、人格的に優れたキリスト者でもある光田健輔院長との話で、感想を述べているところがあります。
 「わたしは今まで、立派な行いこそがキリスト者であり、また、喜びにつながる者であると信じていました。ところがどうでしょう。(ここでは)一日何もできない盲人や、足なえや、寝たきりの重症患者たちが、喜びにあふれて、静かな平安に、心ゆくばかりひたっているのです。」「・・・・たとえば、いままでは大きいもの、美しいもの、明るいもの、そして何かキリスト教的な行いが、キリスト者の資格であると、考えてきたのです。ところが、なんと、小さいもの、弱いもの、醜いもの、動けないものの中に、『神の愛』が宿っているのを、この目で見ました。」と告白しています。
 気になる聖句が、少し理解できるようになりました。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(第1コリント12:22)。神さまの恵みを100%いただくためには、わたしたち自身100%空しくなることが重要だという事です。神さまの祝福を受ける最もふさわしい条件が、実はわたしたちの<虚しさ・弱さ>だという事でしょう。

8-21<九段の丘>

2016年08月21日

                              神を賛美することこそ
一つの思い出がある。アメリカ留学時代、神学校の教授である音楽博士のY先生は、神学校では伝統的な教会音楽を教え、毎日チャペル礼拝のオルガンを演奏されていた。その先生が日曜日になると、小さな集会で奏楽を担当されていた。楽器はアップライト・ピアノで、ほかにはスネアドラムをブラッシでたたく黒人の青年一人だけ。けれども、先生は実に楽しそうに讃美歌を伴奏していたのを思い出す。クラッシクからジャズ、コンテンポラリ-と幅の広い守備範囲で自由闊達に演奏されていたことだ。
モダンジャズについてのコメントに、弟の光比古から珍しく高い評価をしてもらったことがある。クラッシックだけが正統であるかのような狭い音楽理解が、教会の一部に横行しているが、現代ある様々な音楽をそう簡単に断定しきれるものではないだろう。
堅苦しければ教会音楽なのか。ジャズはクラッシックに比べて劣るなどと思うのは勝手だが、その狭い考えにしがみつくのは愚かなことだ。
わたしの神学校の後輩の牧師に、演歌大好き人間がいた。礼拝で演歌こそ歌わなかったが、気に入った演歌の歌詞を材料に、よく説教をしたものだ。そして、にやりと笑って、一言。「演歌って、本当にイイデスネ!」
って。演歌好きの礼拝出席者だっているだろう。
結局のところ、好みのちがいでしかないことを思い知るべきだし、楽器や音楽の種類が問題ではなく、演奏する人の心のあり方こそが問われるのだろう。


8-14<九段の丘>

2016年08月13日

 before/after  聖徒の交わり

 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。          (第一コリント13:4~7)
 クリスチャンになる前と後、つまりbefore  /afterで、変化がなければ意味がありません。イエスさまに出会い、聖霊に満たされ、神さまに向かって歩み出した者が、それ以前の生き方と全く変わらないのであるなら、いわゆる信仰による回心・悔い改めが起こらなかったことになるからです。
 教会とは生きた人たちの集合体です。当然、固定したものではありえません。流動的で、ダイナミックなものです。変わらないはずがありません。刻一刻、日々変化するのが当たり前なのです。
 新しい方々に教会に来てほしいと、誰もが願っている筈です。ただ、新しい方がいらっしゃるとは、その一人分わたしたちに変化が起こることを理解しておく必要があります。そのことを嫌がっては、何も始まりません。
 おのおのが上記の愛のあり方に立ち帰ることです。実は、わたしたちは教会においてわたしたちの<愛>が日々試されているということです。愛があるクリスチャンだ、と自任しする者は、常に主に喜ばれる者になっているかが問われているのです。
 時に厳しく、お互いをチェックし合いましょう。パウロ先生の言われるように、<本当の忍耐強く、礼儀正しく、自己中心でないか>をチェックし合いましょう。謙虚にされましょう。それこそが聖徒の交わりです。それができないようでは、教会でもなければクリスチャンでもありません。

 


8-7<九段の丘>

2016年08月06日

                     世界を変える、自分を変える
 ある信仰者が次のように告白した。
「若かった頃、わたしは革命家でした。<神>へのわたしの祈りはすべて次のようでした。『主よ、わたしに世界を変える力をお与えください』
   中年になり、わたしの半生がたった一つの魂さえ変えることができず過ぎ去ったことに気づいた時、わたしの祈りを次のように変えました。
『主よ、わたしと接触するすべての人を変えるお恵みをわたしにお与えください。家族と友人だけでも結構です。それだけで十分満足です。』
    ところが老人になり、残りの日々が限られてきた今、わたしは自分がどんなに愚かであったか分かりはじめました。今、わたしのただ一つの祈りはこれです。
『主よ、わたし自身を変える恵みをお与えください』
  
  もしわたしが初めからこのように祈っていたら、わたしは人生を無駄に過ごさなくてすんだでしょうに。」
 
   ほとんどの人は、世界を変えるために他の人を変えようと考えます。自分自身を変えようとはめったに考えません。
  「兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。(マタイ7:4)」と、キリストはおっしゃるのだが。