九段教会コラム

このコーナーでは、教会からのコラムや行事等についての記事を投稿します。(不定期更新)


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7-23<九段の丘> 

2017年07月23日

                                                         心を豊かにしてこそ…
『風の扉』を読む。夏樹静子の力作である。先端医療の行きつくところ、臓器移植の究めつけ、頭と胴体の接合手術を取り扱った近未来小説である。脳死問題とも絡む。これは、医療があくまでも生きた人間をトータルに治療できるか、医師の知的好奇心、医療技術の発展のみに目向けられることへの疑問を含んでいる。
巻末で「解説」を担当したS氏がこんなことを紹介している。「….以前、病院のベッドで本を読んでいたとき担当の医師から、文学はそんなに面白いものですか?医学は人を救うものですが、文学は人を救わなくてもいいのでしょう、わたしは文学は読みません、と言われてギョッとしたことがある。」と。わたしもギョッとした。
 経営の神さまと呼ばれたP.ドラッカーは、二言目には、経営者たちに社会を知り人間理解のためには小説を読みなさいと勧めた。
 以前、朝日新聞の文化蘭の対談で、五木寛之氏が、「すぐれた文芸作品には、本当に自然に育成される宗教的な感情がある。もっと小説を読んでくれるといいですね。人間の命が大切だとわかりますから。」と、相手の水上勉氏に言っている。
小説を読もう。推理小説も楽しいが、わたしたちに人生を考えさせ、人の命の尊さを教えてくれる小説を読もう。

7-9<九段の丘>

2017年07月09日

                              梅雨だ、どこかで油でも売るか!  

 

「さぼる」とは、「怠ける」という意味ですが、フランス語の「サボ(木靴)」からとられ「サボタージュ」になって日本わたってきたのが大正時代と言われています。そして日本語の「る」をつけて、「サボる」になったそうです。  

この「サボる」と同じような意味に「油を売る」というのがあります。これはずっと古く室町時代かにさかのぼります。当時京都には「油座」という油業者の組合ができて、この業界はたいへん儲けたそうです。ですからこの業界で働く人たちは一様に豊かで、こせこせ商売はせず、悠々とやっているので、遊び半分の気の乗らない商売をしているように見えたのです。その様子を見て、人々は「あのひとは油を売っている商人のようだ」「あの人は油を売っている」と言ったのです。 また、油の行商が升から徳利に移すとき、油が切れるまで待たなければならないので、世間話をしたりタバコを吸ったりしました。その様子から、怠けること、手間取ることを「油を売る」と言われるようになったという事です。

「油を売る」とはあまり良い意味で使われないようですが、こんな梅雨の季節だから、時にのんびり油でも売って気を晴らしてはいかがでしょう?   

疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしの元に来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)


  ◆次の礼拝のご案内◆ 

2017年07月06日

        2017年7月9日(日)10時30分   
          三位一体後第4主日
       説教『恐れを追い出す』
           聖書 詩編27
               メッセンジャー:髙田和彦
      奏楽:橋本美穂
※梅雨の季節です。生ものに注意して。
暑いからといって冷たいものを飲みすぎないように気を付けましょう。
九段教会は、あなたのおいでをお待ちしています

7-2<九段の丘>  

2017年07月02日

                                                         会話の距離
 コミュニケーションの研究分野では、会話する場合、相手との適切な物理的距離というものがあるという。その目安を次の4つに分けることができる。
「排他域」(50cm以下 関係の浅い他者に絶対に入りこまれたくない距離 ) 二人の親密な関係の距離を言います。
「会話域」(50cm~1.5m 通常の会話がされる距離)  これも、付き合いの浅い者が入ることのできない距離でしょう。特別な関係の男女や、同性の親友の距離がこれでしょう。このへんのところが分からず、これからの季節を土足で闊歩する人は、男女問わず嫌われるのではないか。自戒したところです。
「近接域」(1.5~3m 普通、微妙な距離。会話をしなくてよいが、いづらい)
「相互認識域」(3m~20m 知人に挨拶する距離。近いほど相手を無視できなくなる)
     (岡田昭人著『オックスフォードの教え方』(朝日新聞出版)p.85より参照)

 

 相手との関係が、相手との距離を決めるので、無神経だと、知らず知らずのうちに嫌われることになる。思いがけない印象を周囲に与えて、結果的に生理的にも受け入れてもらえなくなることも覚悟しなければならないだろう。
 教会は、様々な人の出入りする所ではある。だからこそのこころ配りが必要ではないか。自分がどう思われているかを認識し、「あの人はざっくばらんに見えていて、気配りの行き届いた人だ」と思われるほどの慎重さも必要ではないか。


6-25<九段の丘>

2017年06月25日

                                                                 いなご豆
 「彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人は誰もいなかった」(ルカ福音書15:16)
有名な『放蕩息子』のたとえ話で、放蕩に身を持ち崩した息子が落ちぶれて、飢えている様子が描かれています。この<いなご豆>とはどんな豆でしょうか。今日でもイスラエルに行くとその木を見ることができますし、サヤに入って黒々として<いなご豆>を枝から自由にもぎ取ることができます。ただ、その豆自体は簡単に破ることができないほど硬いものです。
ところでこの<いなご豆>のことをbean podsと言います。podとは「さや」とか「(いなごの)卵の嚢」という意味があります。その<サヤ>の中に隠れている豆こそ、世のご婦人方が最も関心のお持ちになる重さの単位なのです。カラット(carat)です。
カラットとは、①合金中に含む金の割合のこと(純金は24K)②宝石の重さの単位で200ミリグラムを表す、と説明されています。つまり、一粒200ミリグラムの重さのある<いなご豆>が、宝石の単位になったのです。
豚も食べるのを嫌がるほどの硬い<いなご豆>が、女性たちを飾る宝石の重さの単位になったというのは面白いですね。