九段教会コラム

このコーナーでは、教会からのコラムや行事等についての記事を投稿します。(不定期更新)


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2-7 <九段の丘>

2016年02月06日

 ていねい?な言葉づかい
「では会を終わるにあたりまして、○○さんにお祈りをしていただきます」「では、ご指名いただきましたので、(僭越ながら)祈らさせていただきます」
以上のやり取りはおかしい。第一、<ご指名をいただきましたので>と断りはくどい。第二に、持って回ったような言い方はいらない。謙遜語、謙譲語も度が過ぎるとおかしい。余計な表現を付け加えるのは、自意識過剰だし、自信のなさの表れでもある。指名を受けたら、「(では)祈ります」でよろしい。舌を噛むような言い回しは一切不要だ。

教会の会合において、牧師同士がお互いを「先生」呼ばわりするのもおかしい。正式の場であるならば、▽▽教師、▽▽牧師と呼べばよい。「▽▽先生」という呼び方は、カジュアルな呼称として教会内にあるので、全廃するのは難しいのかもしれない。「△△牧師先生」はくどい。「○○牧師、お願いします」で十分。

大先輩の牧師が、駆け出しの新米伝道師や牧師を捕まえて「○○先生」は滑稽でしょう。対面の時は、「○○さん」「○○くん」で十分だ。大先輩に○○先生と呼ばれる方の、新米教師は、こそばゆい気持ちになるだろう。支区の按手礼式において按手を受けたばかりの、牧師に、司式者が「では最後の祝祷は、○○先生にお願いします」はないだろう、折角晴れて伝道師から聖礼典も執行できる一人前の牧師になったのだから「○○牧師に・・・・」。

尚、教会の会議では、お互いを「□□議員」あるいは「□□さん」と呼べばよろしい。この場合は、教職も信徒もない。同じ会議の構成員であるから。会議の中では、▽▽議長、□□議員、○○委員、△△委員長と呼べばよろしい。


1-31 <九段の丘>

2016年02月02日

                  福音によって
 「この世にはおもしろくないどころか悩ましいこと、辛いことがある。愛があるべきところに憎しみが、協力があるべきところに高ぶりと非難とが、神と真理への服従があるべきところに投げやりと無責任とが・・・・・こういうお互いの問題は、集中豪雨のようにわたしたちの心を打ち、どうしようもなく暗い、神の愛も見失われ、死んだような気持ちにしてしまうものである。
 『いたずらに信じている』とは、もはや、その信仰が力を発揮していない、役にたっていないということであるが、外見的には、一応信者としての形を保っていても、実は、あの心の、どこかの土砂崩れのため、その信仰は形だけのものになってしまうという危険である。」(鈴木正久『主よ、み国を』より)

 

 

 形だけの信仰ほど無駄で、邪魔なものはない。何のための信仰なのか。あるどちらかというと大きな教会の役員が、ある教会員に奉仕の協力をお願いしたところ、思いがけない返事が返ってきた。「わたしが、この教会に籍をおいているのは、奉仕をするためではありません。まったくその反対です。つまり大勢いるので自分がやらなくていいと思ったからです」言い訳にならない、情けないリアクションである。
  何かと比較されるのが、日本と韓国。教会もまた然り。その違いは何かと言えば、もちろん例外はいろいろあるが、彼ら韓国のキリスト者は限りなく聖書の約束を信じ、精いっぱい神さまの命令に従おうとする。日本の多くのキリスト者のように隣の人の様子を見て手抜きをするようなことはしない。そう、神さまと自分の関係を大切にするのである。


◆次の礼拝のご案内◆

2016年01月29日

                 2016年1月31日(日)10時30分   
                説教『生活に愛を働かせなければ』
                   聖書 ローマ12:9~21

※先週の続きのメッセージになります。ご期待ください。信仰生活と言いながら、生活と信仰が一致しないのがわたしたちのようです。的外れなのです。ギリシャ語では、的外れのことを<罪>といいます。罪深いのです。その罪深さに気が付いてもらいたい人ほど、人ごとのように生きて、反省がありません。今度のメッセージを聴いて、あの人は反省してくれるかしら?自らの罪に恐れ震えおののいて、祈りに導かれれば最高です。   (髙田和彦)


◆次の礼拝のご案内◆

2016年01月23日

  2016年1月24日(日)10時30分   
    説教『信仰を実践』
   聖書 ローマ12:1~8

※2か月に1度、弟・髙田春彦が平塚から来て、礼拝奏楽をしてくれます。みんな喜んでくれるので、わたしも喜んでいます。よい礼拝ができますように。
※※おでかけください。          (髙田和彦)

 


1-17 <九段の丘>

2016年01月16日

                                      礼拝と楽器
 礼拝の中で楽器が使われるようになったのはいつのころからか厳密にはわかない。どんな楽器が使われたのかも定かでない。人間の歴史ほど古い話であることは誰もが認めるところだろう。
創世記4:21には次のように記されている。最も古い記事かもしれない。「その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった」竪琴、琴が聖書の中で最も多くみられる楽器だ。サムエル記、歴代誌には、ダビデが自ら竪琴を奏で神さまを賛美した記事をたくさん見ることができる。弦を使った楽器はいろいろだ、それらがハープの前身になった。

笛、横笛、角笛、ラッパなどは、いろいろな形があった。人間の息を使う楽器として、賛美の場で用いられた。管楽器の原型がここにある。木製、金属製、様々なものを一つにして、これが後のパイプオルガンに発展していく。中世などでは、電気がなかったので、下僕たちがオルガン演奏のために建物の裏にいてフイゴで空気を送り、演奏者はその助けによって音楽を奏でることができた。ただフイゴの大きさが、音量の大きさに比例し、それがオルガン全体の大きさにも比例しただろうから、今日のような大きなパイプオルガンは存在しえなかった。多分もっと素朴なものだったと思われる。

打楽器ではシンバル、鈴、太鼓と、生活の身近なものをいろいろ材料とした。高らかに、心躍らせ神さまを賛美するときの必需品だった。手拍子も打楽器としての賛美の業として用いられたことも聖書の中から推察できる。
(『キリスト教礼拝・礼拝学事典』(日本キリスト教団出版局)を参照)