九段教会コラム

このコーナーでは、教会からのコラムや行事等についての記事を投稿します。(不定期更新)


<クリスマス予告>

2015年10月18日

本年のクリスマスコンサートは、12月5日(土)16時~18時

お覚えください。たのしいプログラムで、皆様方をお迎えします。

いつもの楽しいメンバーが待っています。

クリスマス特別礼拝は、12月20日の午前中に奉げられますし、

 イブ礼拝は、12月24日の夜に計画しています。今年は、にぎやかになりそうです。

ご期待ください。

 


10-18 <九段の丘>

2015年10月18日

生きるために必要

人間のからだは、毎日の口から入るものでつられている。当然と言えば当然。従ってきれいな水と空気、それに健全な食品がどしても大切になる。それによってつくられるし、それ以外でつくられようもないからである。神経質すぎる必要はないが、口から入るものに対して注意をはらわなければならない。
いまの子供たちは多忙だ。学校へ、塾へ、スポーツ・クラブへと出かけていく。すべての子供たちではない。が、そのための費用を稼ぐのに母親はパートに出る。「お友達がいませんので」とか「本人が行きたがりますので」とかいう理由を聞く。親たちには相変わらず塾神話があり、塾に入れておきさえすれば安心だという。それで何か不祥事でも起こればオロオロし、学校や塾に責任転嫁する。

何が何でも有名校に行き一流と言われる企業に入りさえすれば、子供が幸せになれると思い込んでいる。果たして人生はそんなに単純だろうか?人生は、知識を詰め込み、体を鍛えても、それで人間が出来上がるものでもない。そこにもう一つ大切なものが加わらなければならない。
『主なる神は、土の塵でひとを形作り、その鼻に命の息を吹き入れらてた。ひとはこうして生きるものとなった』(創世記2:7)
神の命の息の吹き込みがなければ、人間は木偶ならぬ土偶だ。逆に言えば、泥人形にすぎない人間が、尊い価値ある存在になるためには、神の一息が必須となる。
最近、「知育、体育、徳育」と盛んに言われるようになってきた。文科省あたりでは<徳育>を教科化しようとする動きがあると聞く。今でも十分なのに、学校教育の中で更に批判精神を骨抜きにして、全体に奉仕する素直なロボットのような国民を造ろうとしている。どこかの国を嘲笑えない愚策だ。


10-11 <九段の丘>

2015年10月10日

出番はいつ?
自然界を考える基本的な考えの根拠に以下の聖書を思います。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」(創世記1章31節)
神さまの創造物であるこの世界は、創造の当初「極めて良かった」といいます。100%、神の御心によってその存在がスタートしたということです。何一つ無駄なものはない。すべて、意味あるもので満ち満ちている筈です。
しかし、そこに優劣をつけ、差別化してきたのは人間だ。益獣・害獣、益鳥・害鳥、益虫・害虫、みな人間の都合で区分けをしただけのこと。においsmellをうけいれられないとか、かたちや外見 looksが異様であるとか、鳴き声 voiceがユニークすぎるとかという理由で、勝手に色分けされてきた。
みみずは、畠の土を耕して良質にしてくれる素晴らしい働きをする。鳥は木の実をついばみ、種を拡散させる働きをする。それぞれが一所懸命生きることで、思いがけない働きをしたり、全体に貢献したりする。受粉活動をするミツバチが、この地球上からいなくなれば、3,4年で人類は食糧不足に陥り、やがて滅亡するという。
そして、あの嫌われ役のゴキブリは、今のところ何の評価はされていない。けれど、いつの日か人間社会に貢献する働きを秘めているのかもしれない。そう、ノーベル賞をいただいた大村先生は、微生物の中から、人類の救いに貢献する物質を発見したのだから。


掲示板

2015年10月09日

○主日礼拝予告

1011()10時半から

説教「すべての人が救われるために」

聖書 ヨハネ福音書317

讃美歌 60324494

  • 午後の集会は、壮年会の例会があります。

     

  • この日から、午後2時からは、「葦のかご教会」グループが、当教会を用いて、礼拝活動を行います。驚かないでください。こういうケースは、ときどきあります。お覚ください。

    牧師は、坂本かおり、坂本兵部の両先生。ご夫婦です。

     

  • 特別伝道集会は、次の10月18日にあります。

    講師は、ジョージ・ギッシュ先生 アメリカ合同メソジスト教会宣教師で、青山学院大学名誉教授でいらっしゃいます。

    説教題は「敵を愛するということ」 聖書を通して解き明かしていただきます。

    先生は、筑前琵琶の研究家でいらっしゃいます。持参して演奏も解説もしていただきます。

    興味津々です。

     


10-4 <九段の丘>

2015年10月04日

手を挙げるだけでは

日本のクリスチャンは、特にわが日本キリスト教団の信者は、勉強家だった。教会で、社会で、様々な問題が起こると、すぐそれについての勉強会をする。問題点がどこにあるのか、どうしたら解決できるのか。そのために専門家を読んで研究会までする。結果、自分たちもちょっとした専門家になる。神学的な分野になると、牧師は書斎に閉じこもり、関係の書類は読み漁る。結果、これまたちょっとして専門知識を振り回す存在になる。しかし、それで満足し前進しない。そこまで。最近では、若い世代は本を読むことも少なくなっている。心配だ。
ただ、ただ、手を挙げて「主よ、主よ、わたしたちを憐れんでください」と祈るだけで、それ以上に時と宝と汗を流す人間の努力がなければ、教会は何も変わらない。神さまも助けようがないのだ。
神人協力説ではないが、ある神学者が言う。「祈りとは、あなたが精一杯尽くした後の、神さまから約束である」最善を尽くして、その後、御心がなることをゆだねるのだ。人間の限界を超えたところのことは、神さまに大胆に期待する。
日本の教会の存亡が問われている。みな心配して、何とかしなければならないと先日のセミナーにも多くの人たちが参加していた。でもセミナーで問題点をあぶりだして、納得して終わりでは、何も変わらない。わたしたちの信仰生活は、もっとダイナミックに行動が伴うべきであろう。
・・・・わたしたちに時間は残されているのだろうか。