九段教会コラム

このコーナーでは、教会からのコラムや行事等についての記事を投稿します。(不定期更新)


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6-18<九段の丘> 

2017年06月18日

                                      言葉の力
 「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。
  見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。
  見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。
       既に死んだ人を、幸いだと言おう。
      更に生きていかなければならない人よりは幸いだ。 
    いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。
  太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。 (コヘレトの言葉4:1~3)
 厳しい言葉だ。生まれて来なかった者や、生まれてもすぐに死んだ者の方が、生き続けている者たちよりも幸いだという。今の世界を垣間見るようだ。何と悲しい世の中だろう。そうでないようにしていかなければならないのに、見る努力、感じる努力が足りない。
 昔から多くの命が全うすることなく失われていった。旧約聖書の時代からの、死の三大要因は、飢え・疫病・剣だった。それが今も続いている。<人間の進歩・人類の繁栄>とは何か?強い者、豊かな者が与えられたものを自分たちだけのために使っているからか。
 言葉を失う中、時々素晴らしい文章に出会う。漠然としたわたしの喜びや悲しみを代弁してくれる言葉に出会うことほどありがたいことはない。そのためにもわたしは聖書を読み続ける、そして新聞も。

6-11<九段の丘>

2017年06月10日

                                           期待すること。信じること。
 昔むかし、ある村でのお話です。その年は、梅雨になっても雨が全然降りません。そんな日が何日も続きました。そのままでは。稲も枯れてしまいます。村人たちは<雨乞いのご祈祷>をすることになりました。村人こぞって村で一番高い山にのぼり、お祈りをするのです。
 <雨乞いのご祈祷>の当日です。人々はお日様がギラギラ輝きカンカン照りつける中、山道を頂上目指して歩いていきます。さまざまな日除けを持参しています。竹筒には水が入っています。すると中に、雨傘だけを抱えているおばあさんがいました。人々は、こんな雲一つない晴れた日に雨傘を持っていくなんておかしいと嘲笑いました。おばあさんは、人々の嘲笑いの声を平然と聞き流して、黙々と歩いていきました。
 このお話で、<雨乞いのご祈祷>の結果、雨が降ったか降らなかったかよりも大切な点があります。
 人々とこのおばあさんとどちらがおかしいでしょうか?心から神さまの力を信じていたのは、このおばさんではなかったか。雨対策をしていたのは、神さまが雨をふらしてくださることをしんじていたからでしょう。それに引き換え、他の連中は、<雨乞いのご祈祷>には参加はしたけれども、結局のところそれはきやすめでしかなく、神さまが雨を降らしてくれるとは、頭から信じていなかったとうことでしょう。もっと厳しい言い方をすれば、人々にとって雨が降ってもふらなくてもどうでもよかったことになります。このおばあさんは、心から雨を期待していたことにもなります。
 あなたのいのりには、このおばあさんの<期待>がこめられていますか、それとも?

6-4<九段の丘>

2017年06月03日

                      ペンテコステは教会の誕生日
クリスマス、イースターと並ぶ3大祝祭です。<ペンテコステ>とはギリシャ語で「第五十番目」の意味。救い主イエス・キリストの復活を記念するイースター当日から起算して7週目の日曜日、つまり50日目なので<五旬節>と言われます。この日、都エルサレムに待機していた使徒たちに聖霊が降臨されると、彼らは世界に向かって宣教を開始したところから<聖霊降臨節>とも言われるのです。
ところが、このペンテコステはキリスト教会のオリジナルかと言うと、そうではありません。もともとは旧約聖書三大祭の一つ<収穫祭>で、出エジプトを記念する過越(すぎこし)の祝いから50日目にあたるので<七週の祭り>と言われたのです。
ですから、聖霊降臨の当日も都エルサレムには、世界中から信仰篤き人々がたくさんやって来ていました。キリストの弟子であることをひた隠しにしてきたペトロたちは、その人たちに向かって、華々しくデビューしたことになります。
復活の福音は、力強く宣べ伝えられ、その日3000人の回心者が起こされたと言います。世界教会の一歩がエルサレムで記されたのでした。
今日、世界中にあるキリスト教会は、あのエルサレムの巨大な一歩にたどり着くことができるのです。わたしたちの九段教会も例外でなく。

5-28<九段の丘> 

2017年05月27日

                                         子どもの心を
 「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、
     決して天の国に入ることはできない」(マタイ18:3)
 子どもはかわいいものである。特に1歳半前後の、ようやく片言がはなせるようになり、いわれたことを、簡単なことなら一生懸命にやろうとする頃の幼児の純真さ、誠実さ、無私といった美しい心情には神さまに近いものが感じられて頭が下がる。これは人間にとって最も大切なものではないだろうか。
 けれども、この大切な心情は子どもが成長していくにつれて薄れていく。逆に欲、虚栄心、競争心、傲慢が芽生えてくる。この心情はある程度自分の向上にも役立つが、多くはその方に力が入りすぎて醜い争い、戦い、ひとも自分も傷つけ、天国とはほど遠い人間になってしまう。それでも、何も知らない幼児に与えられているこの純真な、素直な誠実さ、無私というものが人間の根本的な、大切な心情であることを聖書は教えている。
 大人になってもこの幼な子の心を持っている者は天国に行ける。天国とは普通死後の世界をいうのだが、現実の人生でもその心を持つ人が誰からみても立派な美しい人生を送ることができることを暗示しているように思う。純粋な豊かな心を持ち続けよう。

5-21<九段の丘>

2017年05月21日

        教会の絆
家族がいると、一人暮らしにはないトラブルが、起こったり、巻き込まれたりする。それを肯定的に受け止めるか、ただ単純に迷惑と思うのか。考え方次第なのかもしれない。夫婦だけでも、生きていく中で、多少の問題は起こる。子どもや孫がいて、更にその連れ合いができて、相手方の家族との関わり合いが生まれることになる。楽しいことも多々あるが、面倒なこともある。
 面倒なトラブルなどにどのようにかかわるのか?すべて拒絶し切り捨ててしまうやり方もなくはない。が、それでいいと言い切れるか?トラブル続きも困るが、だからと言ってすべてキリステ(切り捨て)教を決め込むか。
 ただ誰もが分かっていることがある。<絆>とは、何もないところからは生まれないし育たない。家族であることで、いろいろな問題に遭遇し、そのため振り回され、時間や費用を費やすことが出てくる。それに前向きに取り組むことから、<絆>は産み出される。
 教会は罪びとたちの集まりだと言う。口先で言うのは簡単だ。実際、面倒な事でもある。一歩間違えると、裁き合いになり修羅場にもなる。それを避けて通る人もいる。認めない教会の群れも多々ある。けれど、そこからは何も生まれない。教会員が家族になるのは、それでも教会に留まり、泥臭く面倒な友とのかかわりから逃げない事ではないか。主イエスさまが人気があるのは、逃げないで友の足を洗ったからではないか(ヨハネ13:1~20)。