九段教会コラム

このコーナーでは、教会からのコラムや行事等についての記事を投稿します。(不定期更新)


9-13 <九段の丘>

2015年09月13日

おしゃかとおじゃん

何かに失敗したり、壊したりすると「おしゃか」になったと言います。また、すべてが終わってしまうとか、うまくいかなかった時など「おじゃん」になったと言います。
まずおしゃかは「お釈迦さま」のこと。4月8日はお釈迦様の誕生日・花祭りで、ご存知ですよね。むかし江戸の飾り職人がロウケツをするときなど火が強すぎて失敗することがあって、その時職人は「しまった、火が強かったな」と言うところを、江戸っ子ですから<ひ>と<し>の区別がつかない、ここで「しがつよ(つ)かった」、つまり「失敗」となるのです。
もうひとつの「おじゃん」ですが、江戸の華の一つに火事があります火事が遠いときには、半鐘を二つ打ってしらせ(二つ半)、三つ、四つと近づき、ごく近くであれば摺り半といって半鐘を連打して知らせるわけです。やがて、火事が鎮火するとゆっくりと二つ半鐘をうちます。これを「おしめり」とか「おじゃん」とか言ったそうで、そこからすべての終わりをおじゃんと言うようになったということです。火事とケンカが大好きだった江戸っ子にとっては、いかにも侘しい音に聞こえたことでしょう。そういえば、今も消防車はその伝統なのでしょうか、帰りは「おじゃん」を鳴らしながら帰っていきますね。
わたしたちの生活に影響のある、政治がおしゃかにもおじゃんにもなりませんようにと祈ります。このたびの豪雨の被災者の方々の一日も早い復旧を願っています。

 


8-9 <九段の丘>

2015年08月09日

                                             信仰に入るまでの手続き

信仰的に霊的に力強い説教を聞いて、あなたは心打たれ感動する。その後で「ああおもしろかった。。。ためになった。。。来週も続けてお話を聞きに来よう」と言うだけでは、しかしながら何もならない。その説教が即神の言葉になるわけではない。聖書について、どんなに説明を聞いても、それだけで、自分でほうとうに聖書をよまなければ、聖書は神の言葉になりまっせん。

だから昔、A牧師は「わたしの言うことばをそのまま神の言葉ととっては困ります。『きょうの説教はおもしろかった、つまらなかった』で終ってもだめです。わたしの説教が多少でも刺激になり、自分で聖書を読み、自分で聖書を吟味する、ということであれば、そこで初めて神の言葉になります」新約聖書にもそのような記事がでています。

「人々は、心から教えを受け入れ、はたしてそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。そういうわけで、彼らの内の多くの者が信者になった」

パウロはべレヤに着いて、ユダヤ人の会堂で説教をしました。そこの人々は、パウロの説教を熱心にききましたが、パウロの言うことが本当に正しいかどうか聖書を調べました。どんなに説教者の話が上手で感動的であっても、それはそのまま真にうけて、それだけで信仰に踏み切ることは軽率だと言わなければなりません。話を聞いた人は、聖書とはそういう深い意味をもっているのか、そういう大きな力があるのかと、自分で直接聖書に当たってみて、納得して、それではじめて信仰に入るのでなければだめだ。


8-2 <九段の丘>

2015年08月01日

 精一杯 やったら・・・

 

「朝、種をまけ、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、わからないのだから。」(旧約聖書・コヘレトの言葉11:6)

 

わたしたちは一分先に何が起きるか、明日はどうなるのか全然わからない。しかし今は与えられた仕事、なすべき仕事は精一杯やらなければならない。いやな仕事でも、辛い仕事でも、その仕事が、将来どんな所でどんなに役に立つか解らないのだから、せっせとやるべきである。無理に頼まれた仕事でも忠実にならなければならない。働ける人は働くことができる自分の健康に感謝して、朝早く種を蒔き、夜遅くてもなすべきことがあったら、それが自分のためでなく、人のため、社会のためで、自分には得にならないことでも、進んでやるべきである。どうなるかわからないからやらないでおこうと考えず、何でも積極的に惜しみなくやれ、ということを聖書は種蒔きのことで教えている。希望がないように見えるものでも、決して見捨てたり、投げ捨てたりしないで、できるだけ成長するように骨を折って努力すべきである。人間の力には限界があっても、やれるところまでやって、あとは悔やむことなくすべてを全能の神に任せることである。


7-19 <九段の丘>

2015年07月18日

  教会 伝道 離合集散

 「あなたの教会では、年間予算の中で、いくら伝道費を計上していますか?」

「お恥ずかしいのですが、ほとんど伝道のための予算はありません!」「それで、どうして主の御委託に応えるための伝道が可能なのですか?」

 こんな会話をしたことがあります。相手は神奈川県にある大きなカトリック教会の会員の方でした。伝道は、それなりに資金が必要なのは、誰も知るところです。そのための備えの必要を痛感します。

教会が分化分裂するケースがあります。教会内でお互いの伝道方針が異なる場合、一緒にいられなくなります。無理に一緒にいる必要はない。それぞれの使命を果たすために積極的に別れ、それぞれの特徴を生かした伝道活動を展開していくこともありだ。使徒言行録の中でも、路線の違いから分かれて、それぞれ信ずる所を進む伝道者たちがでてくる。

逆のケースも。つまり、それぞれが様々な事情で弱体化していくなかで、存立そのものが危ぶまれた場合、複数の信徒の群が積極的に一つになることもある。英国のあるカトリック教会堂が火事で焼失したとき、同じ町のメソジスト教会が手を差し伸べ、自分たちの教会堂を時間差で使用する事を許可したケースがあった。お互いに助け合ってコミュニテイー・チャーチを実践していた。

K市にある日本キリスト教団の3つの教会が、それぞれの事情を乗り越え、今ある不動産を処分し、駅の前の目立つ角地でも確保し建物をたて、礼拝を中心として諸活動を展開して行く。当初は3つの教会がそれぞれ礼拝を時間差でやる。何年かする間に、一致をめざす…などというのはどうだろう?

もうしあげたいことは、それほどさように、教会の伝道活動は柔軟かつ闊達でなければならないということ。堅苦しく守ることだけを考えていても、何も起こらない。でも、全くあたらしい伝道を創造することを想像するだけでも楽しい。


7-12 <九段の丘> 

2015年07月11日

 神の業が現れるため

生まれつきの盲人を前にして弟子たちが議論していた。これは誰の責任か、本人か両親か?ひとは因果応報を聞いて納得する。妙に納得し満足する。何も変わらないのに。しかしイエスさまは次のようにおっしゃる。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ福音書9:3)彼は両方を否定して神さまを指す。二者択一を迫られて、第三の方向指し示すのは非凡だ。

盲人牧師の熊谷鉄太郎先生は少年のころ、教会へ行ってこの聖書の話を聞かされ、飛び上がらんばかりに驚いたという。この時からひがんでいた少年は求道をはじめた。

人はすぐにそれは誰の責任か、と過去をほじくり出そうとする。それが分ったところで、その人の障害がなくなるわけではない。障害児をつかまえてその原因をやたらに訊ねるひとがいる。やじ馬の興味でしかない。実に失礼な話だ。

だが主イエスは人の目をより未来へと向けさせる。この人のこれからの生き問うのだ。だれがどうしたこうしたとつきつき合い、なすり合うのではなく、神さまのみわざのためにこれからの現実を生きる人であるかどうかを問題にするのである。人は誰しもが過去を背負っていきている。しかし、それを投げ出したい重荷と消極的に思うか、あるいは自分に与えられた恵みと積極的にうけとめるか、そのどちらかでその人の未来が変わってくる。