九段教会コラム

このコーナーでは、教会からのコラムや行事等についての記事を投稿します。(不定期更新)


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5-14<九段の丘>

2017年05月13日

                                  祈りはバトル
 父ダビデから王権の移譲は子ソロモンになされます。素晴らしいのは、その際の信仰的なぶれない力強いアドバイスです。
 「勇気をもって雄々しく実行せよ。恐れてはならない。おじけてはならない。わたしの神、神なる主はあな共にいて、決してあなたを離れず、捨て置かず、主の神殿に奉仕する職務をことごとく果たさせてくださるからである。」(歴代誌上28:20)
 恐れるな・・・、実行せよ・・・、神さまが共にいてくださるのだから・・・。逆の言い方をするなら、<それがすべて、だから恐れないで、目の前にあることを、しっかりと実行していきなさい>
 ただ生活を賭け、命がけで祈り切るためには、その祈りのテーマが本当に神さまからのものであるかを確認する必要があります。神さまからでなく、悪霊、サタン、自分の欲望から出たものであるかどうかを見極めることです。
 信じて祈ることは、戦いです。不安、不信、不信仰との闘いです。それに勝利した者だけが、素晴らしい栄冠を勝ち取ることができるのです。

5-7<九段の丘>

2017年05月08日

                              少年よ、大志を抱け!
 あのクラーク先生が、札幌農学校を去るときに、学生たちに呼びかけた最後の言葉と理解し、Boys, be ambitiousを「少年よ、大志を抱け」と翻訳され日本中に広まった。
 しかしambitiousとは、もともと「大志」というよりも「野心がある」という意味が強く「野望に燃える」といった意味で、あまり上等な表現ではなかった。
 わたしが、聞き、理解したのは、上記の言葉の後に続いて、・・・in Christがついていたという説明だった。それならより上等な表現になると思って納得しておりました。ああ、そうか。それなら野心的でなく、大きな志ということで、受け入れやすいと思ったものでした。ところが、更なる説明を発見しました。本当はそうではないらしいというのです。さらに異なる理解があるというのです。それが以下の言葉です。
  Boys, be  ambitious  for  the  attainment  of  that  a man  ought  to  be!「青年よ、人間のあるべき姿に到達するように、大きな志を抱け!」という意味で、人格の完成を謳っているというのです。ずいぶんと従来教えられてきた内容とは異なります。多分、これが本当なのでしょうか。これが多分クラーク先生の本音なのでしょう。
 それほどに、ひとの言葉は聞く者によっても勝手に理解されるのですね。


4-30<九段の丘>

2017年04月30日

          2017年度のビジョン、ミッション
 2017年度の教会標語と根拠になる聖書箇所が、総会においてようやく決まりました。ここにまとめます。標語は『ビジョンとミッションを明確にし実行しよう』。御言葉はフィリピ3:13-14からです。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞をえるために、目標を目指してひたすら走ることです」
 大切なのは標語倒れにならないことです。掲げた標語に積極的に取り組み、実質化することです。口先だけでお題目をとなえるのは意味がありません。生活がそのように導かれていくことが重要です。
 ビジョンとは何でしょう?幻とか夢と訳せることばです。聖書には<幻なき民は滅びる>とあります。実際の生活がすべてのように思われるけれども、未来に対してどれだけの夢や幻をもっているかが、その人々の価値が決めるという事です。
 悲惨な現実にあっても幻を忘れない人々が、最後には勝利するということでしょう。
 使徒パウロの信仰の素晴らしさは、そこにあった。彼の言葉には未来がありました。だから牢獄から人々に喜びを発信できたのです。希望を失うことなく。逆を考えておくべきです。どんなに素晴らしい現在があっても、そこに安住するならばその人々、団体、教会は滅びの第一歩を踏み出しているのです。
 意見が違ってもいいのです。お互い信ずるところを言い合いながらも、ビジョンを掲げ、与えらえたミッションに生きることです。


4-23<九段の丘> 

2017年04月22日

                                         魅力ある教会の誕生
 もともと起業家精神にあふれた天性の指導者だったビルは、一軒一軒をノックして回った。数か月間、週6日、一日8時間、ドアをノックし続けて、たった一つの問を投げかけた。「教会には行っていらっしゃいますか?」答が「イエス」なら、お礼を言って、次の扉をノックした。「ノー」なら、重ねて聞いた。「恐れ入りますが、行かれない理由をおうかがいしてもよろしいでしょうか?」
 大半の答えは「ノー」であって、そのうち7割ほどは教会への苦言だったという。ビルは人々の反応を整理した。2つのポイントが浮かび上がった。第一は、何かというと献金を要求されたということ。第二が、メッセージが退屈で決まり切っていて、まったく面白みがなく、「自分の生活に関係がない」ことだった。
 苦情をいう人たちに、ビルは聞いた。「献金ばかり言わずに、みなさんに関わりがあって、独創的で刺激に満ち、実践的で真実味のある話をする教会が近くにあったら、行ってみようかという気になりますか?」。多くは「イエス」と答えた。
              (ボブ・ビュフォード『ドラッカーと私』NTT出版 p.100より)
 これ以上、詳しく髙田は引用もコメントもしません。関心のある方は、いろいろ調べてみてください。


4-16<九段の丘>

2017年04月21日

キリストの復活だ
 イエス・キリストの生涯は、最後の最後での大逆転で終わる。ある人々は今日でも、イエスキリストは「負け犬」だったと主張する。だから、そのほかの部分は受け入れるが、あの十字架の無残な姿だけはいただけない、と言う。果たしてそうか?
 野球でいう、9回の裏、アウト2つ。そこからのドラマチックな逆転劇がはじまる。それがキリストの復活でしょう。人間的にどう考えても不可能な状況の中で、神さまだけが、それを可能にしてくださる。それが、キリストの復活に込められている。
 自分たちが信頼していた先生を十字架にかけて殺してしまった、呪わしいエルサレムから失望し、逃げていく二人の弟子たちにお会いし一緒に食事をしたのが、復活のキリスト。そして、その出会いの場がエマオという村だったと言われる。
 毎主日は礼拝の時、毎回真剣に礼拝を通して、あなたもわたしも、復活の主におめにかかります。