九段教会コラム

このコーナーでは、教会からのコラムや行事等についての記事を投稿します。(不定期更新)


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  ◆次の礼拝のご案内◆ 

2017年07月06日

        2017年7月9日(日)10時30分   
          三位一体後第4主日
       説教『恐れを追い出す』
           聖書 詩編27
               メッセンジャー:髙田和彦
      奏楽:橋本美穂
※梅雨の季節です。生ものに注意して。
暑いからといって冷たいものを飲みすぎないように気を付けましょう。
九段教会は、あなたのおいでをお待ちしています

7-2<九段の丘>  

2017年07月02日

                                                         会話の距離
 コミュニケーションの研究分野では、会話する場合、相手との適切な物理的距離というものがあるという。その目安を次の4つに分けることができる。
「排他域」(50cm以下 関係の浅い他者に絶対に入りこまれたくない距離 ) 二人の親密な関係の距離を言います。
「会話域」(50cm~1.5m 通常の会話がされる距離)  これも、付き合いの浅い者が入ることのできない距離でしょう。特別な関係の男女や、同性の親友の距離がこれでしょう。このへんのところが分からず、これからの季節を土足で闊歩する人は、男女問わず嫌われるのではないか。自戒したところです。
「近接域」(1.5~3m 普通、微妙な距離。会話をしなくてよいが、いづらい)
「相互認識域」(3m~20m 知人に挨拶する距離。近いほど相手を無視できなくなる)
     (岡田昭人著『オックスフォードの教え方』(朝日新聞出版)p.85より参照)

 

 相手との関係が、相手との距離を決めるので、無神経だと、知らず知らずのうちに嫌われることになる。思いがけない印象を周囲に与えて、結果的に生理的にも受け入れてもらえなくなることも覚悟しなければならないだろう。
 教会は、様々な人の出入りする所ではある。だからこそのこころ配りが必要ではないか。自分がどう思われているかを認識し、「あの人はざっくばらんに見えていて、気配りの行き届いた人だ」と思われるほどの慎重さも必要ではないか。


6-25<九段の丘>

2017年06月25日

                                                                 いなご豆
 「彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人は誰もいなかった」(ルカ福音書15:16)
有名な『放蕩息子』のたとえ話で、放蕩に身を持ち崩した息子が落ちぶれて、飢えている様子が描かれています。この<いなご豆>とはどんな豆でしょうか。今日でもイスラエルに行くとその木を見ることができますし、サヤに入って黒々として<いなご豆>を枝から自由にもぎ取ることができます。ただ、その豆自体は簡単に破ることができないほど硬いものです。
ところでこの<いなご豆>のことをbean podsと言います。podとは「さや」とか「(いなごの)卵の嚢」という意味があります。その<サヤ>の中に隠れている豆こそ、世のご婦人方が最も関心のお持ちになる重さの単位なのです。カラット(carat)です。
カラットとは、①合金中に含む金の割合のこと(純金は24K)②宝石の重さの単位で200ミリグラムを表す、と説明されています。つまり、一粒200ミリグラムの重さのある<いなご豆>が、宝石の単位になったのです。
豚も食べるのを嫌がるほどの硬い<いなご豆>が、女性たちを飾る宝石の重さの単位になったというのは面白いですね。

6-18<九段の丘> 

2017年06月18日

                                      言葉の力
 「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。
  見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。
  見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。
       既に死んだ人を、幸いだと言おう。
      更に生きていかなければならない人よりは幸いだ。 
    いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。
  太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。 (コヘレトの言葉4:1~3)
 厳しい言葉だ。生まれて来なかった者や、生まれてもすぐに死んだ者の方が、生き続けている者たちよりも幸いだという。今の世界を垣間見るようだ。何と悲しい世の中だろう。そうでないようにしていかなければならないのに、見る努力、感じる努力が足りない。
 昔から多くの命が全うすることなく失われていった。旧約聖書の時代からの、死の三大要因は、飢え・疫病・剣だった。それが今も続いている。<人間の進歩・人類の繁栄>とは何か?強い者、豊かな者が与えられたものを自分たちだけのために使っているからか。
 言葉を失う中、時々素晴らしい文章に出会う。漠然としたわたしの喜びや悲しみを代弁してくれる言葉に出会うことほどありがたいことはない。そのためにもわたしは聖書を読み続ける、そして新聞も。

6-11<九段の丘>

2017年06月10日

                                           期待すること。信じること。
 昔むかし、ある村でのお話です。その年は、梅雨になっても雨が全然降りません。そんな日が何日も続きました。そのままでは。稲も枯れてしまいます。村人たちは<雨乞いのご祈祷>をすることになりました。村人こぞって村で一番高い山にのぼり、お祈りをするのです。
 <雨乞いのご祈祷>の当日です。人々はお日様がギラギラ輝きカンカン照りつける中、山道を頂上目指して歩いていきます。さまざまな日除けを持参しています。竹筒には水が入っています。すると中に、雨傘だけを抱えているおばあさんがいました。人々は、こんな雲一つない晴れた日に雨傘を持っていくなんておかしいと嘲笑いました。おばあさんは、人々の嘲笑いの声を平然と聞き流して、黙々と歩いていきました。
 このお話で、<雨乞いのご祈祷>の結果、雨が降ったか降らなかったかよりも大切な点があります。
 人々とこのおばあさんとどちらがおかしいでしょうか?心から神さまの力を信じていたのは、このおばさんではなかったか。雨対策をしていたのは、神さまが雨をふらしてくださることをしんじていたからでしょう。それに引き換え、他の連中は、<雨乞いのご祈祷>には参加はしたけれども、結局のところそれはきやすめでしかなく、神さまが雨を降らしてくれるとは、頭から信じていなかったとうことでしょう。もっと厳しい言い方をすれば、人々にとって雨が降ってもふらなくてもどうでもよかったことになります。このおばあさんは、心から雨を期待していたことにもなります。
 あなたのいのりには、このおばあさんの<期待>がこめられていますか、それとも?