九段教会コラム

このコーナーでは、教会からのコラムや行事等についての記事を投稿します。(不定期更新)


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7-19 <九段の丘>

2015年07月18日

  教会 伝道 離合集散

 「あなたの教会では、年間予算の中で、いくら伝道費を計上していますか?」

「お恥ずかしいのですが、ほとんど伝道のための予算はありません!」「それで、どうして主の御委託に応えるための伝道が可能なのですか?」

 こんな会話をしたことがあります。相手は神奈川県にある大きなカトリック教会の会員の方でした。伝道は、それなりに資金が必要なのは、誰も知るところです。そのための備えの必要を痛感します。

教会が分化分裂するケースがあります。教会内でお互いの伝道方針が異なる場合、一緒にいられなくなります。無理に一緒にいる必要はない。それぞれの使命を果たすために積極的に別れ、それぞれの特徴を生かした伝道活動を展開していくこともありだ。使徒言行録の中でも、路線の違いから分かれて、それぞれ信ずる所を進む伝道者たちがでてくる。

逆のケースも。つまり、それぞれが様々な事情で弱体化していくなかで、存立そのものが危ぶまれた場合、複数の信徒の群が積極的に一つになることもある。英国のあるカトリック教会堂が火事で焼失したとき、同じ町のメソジスト教会が手を差し伸べ、自分たちの教会堂を時間差で使用する事を許可したケースがあった。お互いに助け合ってコミュニテイー・チャーチを実践していた。

K市にある日本キリスト教団の3つの教会が、それぞれの事情を乗り越え、今ある不動産を処分し、駅の前の目立つ角地でも確保し建物をたて、礼拝を中心として諸活動を展開して行く。当初は3つの教会がそれぞれ礼拝を時間差でやる。何年かする間に、一致をめざす…などというのはどうだろう?

もうしあげたいことは、それほどさように、教会の伝道活動は柔軟かつ闊達でなければならないということ。堅苦しく守ることだけを考えていても、何も起こらない。でも、全くあたらしい伝道を創造することを想像するだけでも楽しい。


7-12 <九段の丘> 

2015年07月11日

 神の業が現れるため

生まれつきの盲人を前にして弟子たちが議論していた。これは誰の責任か、本人か両親か?ひとは因果応報を聞いて納得する。妙に納得し満足する。何も変わらないのに。しかしイエスさまは次のようにおっしゃる。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ福音書9:3)彼は両方を否定して神さまを指す。二者択一を迫られて、第三の方向指し示すのは非凡だ。

盲人牧師の熊谷鉄太郎先生は少年のころ、教会へ行ってこの聖書の話を聞かされ、飛び上がらんばかりに驚いたという。この時からひがんでいた少年は求道をはじめた。

人はすぐにそれは誰の責任か、と過去をほじくり出そうとする。それが分ったところで、その人の障害がなくなるわけではない。障害児をつかまえてその原因をやたらに訊ねるひとがいる。やじ馬の興味でしかない。実に失礼な話だ。

だが主イエスは人の目をより未来へと向けさせる。この人のこれからの生き問うのだ。だれがどうしたこうしたとつきつき合い、なすり合うのではなく、神さまのみわざのためにこれからの現実を生きる人であるかどうかを問題にするのである。人は誰しもが過去を背負っていきている。しかし、それを投げ出したい重荷と消極的に思うか、あるいは自分に与えられた恵みと積極的にうけとめるか、そのどちらかでその人の未来が変わってくる。


<<モダンジャズ・コンサート開催のお知らせ>>

2015年07月11日

九段教会恒例のコンサートの季節がやってまいりました。

来る8月16日、日曜日、午後3時から開かれます。

会場はもちろん、九段教会集会室

おさそいあわせのうご参集ください。

出演は「高田テルヒコ・グループ」です。

                 ★出演者は以下の方々

                   ○細川正道(ベース)

                   ○小林鈴勘(尺八)

                             モトキ(ピアノ、ギター)

                  ○ジュン・葉山(ボ-カル)

                  ○髙田光比古(ドラム)

                           【入場無料】


7-5 <九段の丘> 

2015年07月04日

 禅的生き方に学ぶ

酒処では、新酒ができるときき酒ということをいたします。検査官や税務員が立ちあって、いちいち酒の味をみて、これが一級だ、これは二級だとか決めるのです。そのとき、きき酒をする人は、口に含んだ酒を、ひとつ味わうたびに全部きれいに吐き出してしまいます。そうしないと、次の味が分からなくなるからです。つまり、舌が<無>でないと、ものの本当の味がわからないのです。<無>であることが大切です。これとおなじように、意識が常に<無>でないと、わたしたちは真実を認識することはできないのです。

意識がいつも本来の<無>であることです。それが、わたしたちを正しく世界を認識して行くために、大切な条件です。わたしたちが世界をみる場合、古い経験と知識によって、つまり先入観によることが多く、その上利己的な種々の雑念が加わりますから、純粋にそのものを見ることはほとんど不可能です。

禅の必要なことは、そういう古い経験と知識、記憶を捨てて、ほんとうに純粋な人間の、先験的意識をもって世界を見てゆくことにあります。(以上、山田無文『禅を解剖する』より翻案させていただきました)

鏡のような心をもって、この世を素直に受け止めるところから、すべてを始めたいものです。できる限り先験的意識、偏見を取り除きたいものです。

 

 


6-28 <九段の丘>

2015年07月01日

   神さまの賭け

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ記1:21)

罪のない人が、無垢なおさなごが、どうして信じられないような災い、困難に遭うのか?・・・・人類永遠の問いである。毎朝、新聞を開けば、そのような記事をさがすのに苦労はいらない。

旧約聖書ヨブ記によると、ヨブのことで、神さまとサタンがこともあろうに賭けをしたという、とんでもない記事である。ヨブの災難はそこから始まる。神さまはヨブの信仰の確かさを信じ、サタンはヨブが神さまへの信仰を持ち続けているのは、物質的に社会的に家庭的に恵まれ祝福されているからだと、断定する。神さまが、あらゆる面で彼に祝福を与えているから、彼が感謝するのが当たり前だ、と主張します。

ではどうなるか見ようではないか、と神さまは、サタンと賭けをすることになります。サタンは、限定つきの災いを下すことをゆるされます。もちろんヨブは、そのすべてを知りません。自分の苦しみの原因がどこから来たのか。ヨブは、世のありとあらゆる困難に遭遇することになります。迷惑な話です。その苦しみの真っ只中での彼の信仰の叫びが文頭に掲げたものです。

<若くして親友が交通事故で死んだ。なぜだ?理不尽だ!彼が何か悪いことをしたか?神はどこで、何をしていたのか?そんな神なんて神じゃない!だから、わたしは神なんて信じない>そういう声が聞こえてきます。

神さまの前に、虫けら同然のわたしは、それでもヨブと共に、神さまを信じていきたい。これまで、よいものもたくさんくださった神さまを!