九段教会コラム

このコーナーでは、教会からのコラムや行事等についての記事を投稿します。(不定期更新)


2015 8月
« 7月   9月 »
 1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031  

新着記事

バックナンバー

8-9 <九段の丘>

2015年08月09日

                                             信仰に入るまでの手続き

信仰的に霊的に力強い説教を聞いて、あなたは心打たれ感動する。その後で「ああおもしろかった。。。ためになった。。。来週も続けてお話を聞きに来よう」と言うだけでは、しかしながら何もならない。その説教が即神の言葉になるわけではない。聖書について、どんなに説明を聞いても、それだけで、自分でほうとうに聖書をよまなければ、聖書は神の言葉になりまっせん。

だから昔、A牧師は「わたしの言うことばをそのまま神の言葉ととっては困ります。『きょうの説教はおもしろかった、つまらなかった』で終ってもだめです。わたしの説教が多少でも刺激になり、自分で聖書を読み、自分で聖書を吟味する、ということであれば、そこで初めて神の言葉になります」新約聖書にもそのような記事がでています。

「人々は、心から教えを受け入れ、はたしてそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。そういうわけで、彼らの内の多くの者が信者になった」

パウロはべレヤに着いて、ユダヤ人の会堂で説教をしました。そこの人々は、パウロの説教を熱心にききましたが、パウロの言うことが本当に正しいかどうか聖書を調べました。どんなに説教者の話が上手で感動的であっても、それはそのまま真にうけて、それだけで信仰に踏み切ることは軽率だと言わなければなりません。話を聞いた人は、聖書とはそういう深い意味をもっているのか、そういう大きな力があるのかと、自分で直接聖書に当たってみて、納得して、それではじめて信仰に入るのでなければだめだ。


8-2 <九段の丘>

2015年08月01日

 精一杯 やったら・・・

 

「朝、種をまけ、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、わからないのだから。」(旧約聖書・コヘレトの言葉11:6)

 

わたしたちは一分先に何が起きるか、明日はどうなるのか全然わからない。しかし今は与えられた仕事、なすべき仕事は精一杯やらなければならない。いやな仕事でも、辛い仕事でも、その仕事が、将来どんな所でどんなに役に立つか解らないのだから、せっせとやるべきである。無理に頼まれた仕事でも忠実にならなければならない。働ける人は働くことができる自分の健康に感謝して、朝早く種を蒔き、夜遅くてもなすべきことがあったら、それが自分のためでなく、人のため、社会のためで、自分には得にならないことでも、進んでやるべきである。どうなるかわからないからやらないでおこうと考えず、何でも積極的に惜しみなくやれ、ということを聖書は種蒔きのことで教えている。希望がないように見えるものでも、決して見捨てたり、投げ捨てたりしないで、できるだけ成長するように骨を折って努力すべきである。人間の力には限界があっても、やれるところまでやって、あとは悔やむことなくすべてを全能の神に任せることである。