九段教会コラム

このコーナーでは、教会からのコラムや行事等についての記事を投稿します。(不定期更新)


9-27 <九段の丘>

2015年09月28日

回り道

楽に、安全に、早く、要するにできるだけ近道して目的を果たしたいと誰も思います。仕事でも勉強でもそうでしょう。それが技術革新につながったり、文明の発展にプラスになってきたことは間違いありません。けれども、目的に達することだけにすべての意味があるならば、それでもいいでしょうが、人の生き方として見た場合はどうでしょう?旅を例にとるならば、途中の景色を眺めたり、道に迷って苦労し挫折したり、余計に駅弁を食べたり、思いがけない人との出会いがあったり・・・・ということも人生をより豊かに実りあるものにするはずです。もちろん近道を選んで事足りる場合も多々ありますが、回り道をする面倒さを避けてはその味わいが分からない場合もあるのです。意味のある人生はあとの方かもしれません。
もちろん、無理に無駄な時間をかけて回り道をする必要はないのかもしれませんが、少なくとも安易に近道だけはするまいと覚悟して生きたいと思うのです。
人生を新幹線的に生きるだけでない生き方があるように思われます。近い将来、リニア新幹線が開業すると、ほとんどトンネルの中ばかりで、景色を楽しむこともなくなるとのことです。ゆっくり昼寝もかなわなくなるかもしれません。何が何でも、一刻も早く目的地に着いて、いったい何をするか?問題は余った時間で、どれだけクリエイティブな生き方ができるかにかかってきます。その分、人生得するのか、損するのか。
回り道をし、寄り道し、時に足踏みをし、途中下車する。そんな中に、案外、人生再発見があるのかもしれません。

 


9-20 <九段の丘>

2015年09月19日

病者の祈り

大事をなそうとして 力を与えて欲しいと神に求めたのに
慎み深く 従順であるようにと 弱さを授かった

より偉大なことができるように 健康を求めたのに
より良きことができるようにと 病弱を与えられた

幸せになろうとして 富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと 弱さを授かった

人生を享受し楽しもうと あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと 生命を授かった

求めたものは一つとして 与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた

神の意に添わぬ者であるにもかかわらず
わたしはあらゆる人の中で もっとも豊かに祝福されたのだ
(ニューヨーク・リハビリテーション研究所に壁に書かれた一患者の詩)

 


9-6 <九段の丘>    都合により、古いコラムを掲載します。

2015年09月14日

振 起 日

聞きなれない言葉であるかもしれません。まだまだ夏の暑さが続くでしょうが、9月の声を聴くとわたしたちのキリスト教会では暦の上で一区切りします。それが第一日曜日の「振起日礼拝」です。読んで字のごとく「振るい起つ日」。実りの秋に向かって、振るい起つのです。心を新たに信仰を直し、歩みを正すのです。そして、実りの秋を充実して通り抜け、喜びと感謝をもってクリスマスを迎えることができるのです。そのためのスタートの日が、この「振起日」なのです。心とからだの立ち直りに生活と食事の面から留意しましょう。それぞれに果実を収穫できますようにお祈りいたします。

わたしたちの教会は1875年(明治8年)1月17日に、始まりました。はじめ神田地区にありましたが、1897年(明治30年)現在の九段の地に移転して今日に至っています。今の会堂は3代目になり、すでに20年になります。実に多くの先輩方が、主の御前に礼拝を奉げてきたことを改めて感謝いたしましょう。

最後に、振起日にふさわしく何か決心をしてはどうでしょう。最近お話をする機会を得たクリスチャンは、神への応答、十分の一のおささげについて思いめぐらして、次のような結論に至ったそうです。<10%神さまにおささげし、いただいたものをお返しするのは、献金だけではない。能力も時間も、神さまのためにお返しすることだ。一日24時間の10%を聖別して、み言葉を読む。つまり、一日計2.4時間を工面して、ひたすら聖書を読む。まとめて144分とるのは難しいので、朝昼夜に3~4回に分散して時間をとる。一日40ページを読むと、50日で聖書通読ができるとのこと。もう3回目ですとにこやかに語ってくださった。


8-30 <九段の丘> PCソフト入れ替えのため、古いコラムを遅れて掲載します

2015年09月14日

何が正統なのか

最近「何がキリスト教なのか」「何をもってキリスト教と認めるのか」といった質問を受けることがあります。それについて、A氏の次のような説明を紹介しましょう。

「ごく普通に『キリスト教』と呼ばれている宗教は、旧教(=カトリック、東方正教会など)も新教諸派(=聖公会、ルーテル教会、長老教会といわれるものからペンテコステ、カリスマとよばれるものまで)も、正典としてはただ今日わたしたちが使っている聖書だけを持つ。その範囲とか解釈とか、また聖書と並んで教会の伝統をどのくらい重視するかなどについては若干の相違はあるにしても、みな少なくとも聖書以外の正典はもたない。新しい『教祖』が天啓を受けたと称してその語録などを聖書と別に経典にしてしまうと、当事者たちは依然『キリスト教』を名乗っても、世間が自然に別の通称を与えてしまうことが多い」

信仰を求めて教会へ行こうとする若者たちがたくさんいる。彼らが正しい選択ができるように応援したい。もちろん各人は日本国憲法によって<信教の自由>は保証されている。だから、『キリスト教』以外の宗教を求める人にまで余計なことは言わない。ただ、正統なキリスト教だと誤って信じたり、信じ込まされたりすることに対しては正しい知識を与えてあげる責任と義務を感じる。

正しい教会は、はじめから自らの立場を公にして伝道活動をしている。だまし続けて、ある時点になって初めて正体をあらわすようなことはしない。

『光の子として歩きなさい。光からあらゆる善意と正義と真実とが生じるのです』
(エフェソ5:8-9)


8-23 <九段の丘>

2015年09月14日

心とからだを鍛えよう

神さまは人間を、ご自分に似せて創造されました。物質的な外面的にというより、内面的に、その本質が神さまに似ているということです。ということは、人は自由意志の存在として造られたのです。奴隷になることはないのです。宗教・習慣の奴隷、富の奴隷、偏差値・学歴の奴隷、地位の奴隷、家柄の奴隷、人間関係の奴隷、ゆがんだ愛の奴隷、—すべてのものから自由なのが本来の人間なのです。

さて、そんな難しいことばかり言っていてもクタビレテしまいます。ただ多くの場合、幸せを求めて、気が付いたら何かの奴隷になっている場合が多々あります。でも、忘れないでください。「わたしたちはもうすでに神のすばらしい創造物なのです」だから自信をもっていいのです。わたしたちの内面に隠されている宝を引き出す努力をしさえすればいいのです。具体的な例を2つ書いておきましょう。ぜひ実生活の中で実行してみてください。
<幸せになる方法>
その1.幸せは内面を磨くことである。
置かれた環境や他人の責任にするのではなく、あくまでも幸せの種は自分の中    にあり、それを磨くことです。
その2.態度は事実より重要である。
あなたの態度を目標に向かってしっかり持ち続けること。それによって、むし    ろ事実が変わっていくのです。周りの事実でけに目を神さまは人を、ご自分に    にせて創造されました。奪われていたら、わたしたちは事実・環境のどれになっ    てしまいます。それでは幸せになりません。