九段教会コラム

このコーナーでは、教会からのコラムや行事等についての記事を投稿します。(不定期更新)


4-24<九段の丘>

2016年04月23日

                              キョロキョロ、ウロウロ
 「遠回りしたいんだね、きっと。真実ってやつに真っ直ぐに向かうんじゃなくて、あちこち回り道をして、できれば、ちがうゴールにたどり着きたい。それが夢だな」「人生のゴールが死であることは、みんな知っている。だからといって一刻も早く死にたいとは、普通、誰も思わない。あちこち寄り道しながら、自分の死を納得させてくれる何かを捜していく。遠回りこそ、生きることの本質なのだとわたしは思う」(吉岡忍「まるでおとぎ話のように」)
プロセスをたいせつにしたい。昔、<狭いニッポン、そんなに急いでどこ行くの?>という交通標語がありました。ミヒャエル・エンデ『モモ』の中に出てくる「時間ドロボー」を思い出します。これは生きることすべてにかかわることであるように思われます。
いつも車で走る駅までの道をブラリと歩いてみましょう。立ち止まり、誰かさんの家の門を飾るきれいな花を眺めてみるのもいいでしょう。もと来た道を戻る勇気も必要かもしれません。あなたの精神衛生のためにも、キョロキョロ、ウロウロするのがいいのです。
「遠回りが人を豊かにする、寄り道が人の魅力になる、回り道が年輪を刻む」と吉岡氏が結論していることに注目したい。


4-17<九段の丘>

2016年04月17日

                                          天下り
 その昔、日本は「倭の国」と呼ばれた。その倭の国のことを百済の国の人々は「葦原の国」(あしわらのなかつくに)と呼んだ。それは天上の国=百済(高天原)と黄泉の国の間に葦が茂っている中間の国という意味であった。黄泉の国とはいうまでもなく地獄のことを意味した。
 当時、百済から葦原の国を目指す人々は、天からくだるような気持ちで、間違えば葦原中国に着くことなしにまっすぐ黄泉の国へ至ってしまうのではないかと恐れながら倭に向かった。今日にくらべ、小さな船で対馬海峡を渡り、瀬戸内海を旅して倭の国にたどり着くのは、それなりに大変な事だった。
 非常に高い文化や技術を身に着け、百済から葦原中国に下った者は神にも等しいような扱いを受けた。ここから高貴な人が下って来ることを「天下り」と言うようになった。
 当時、百済からみると、葦原中国は闇の国で、何もないところという考えが強かった。従って、その闇の国にもし素晴らしいものがあるとすれば、それは百済から下ってきたのだと考えられた。だから下ってないもの、それはすなわち「くだらないもの」は、価値のないものを意味するようになり「くだらない」という言葉が生まれた。
 昔の「天下り」はこの国によいものをたくさんもたらしてくれた。けれど、今日の霞が関の官僚たちの「天下り」はどうだろう?あまりにもくだらない。出身省庁の後輩たちに口を利き、会社に利益をもたらす。本人は偉そうにふんぞりかえ、会社は高給を支払う。何とも、一般国民をバカにしたことではないか。これが日本の社会を根本から腐らせる。ショウガナイ、ショウガナイと泣き寝入りは止めよう。あきらめず怒り、非難の声をあげていこう。

 


4-10<九段の丘>

2016年04月11日

 神さまとのホットライン
聖書を読んでいます。じっくり集中できないところは飛ばして読むこともありますが、逆に丁寧に一字一句味わい、行きつ戻りつ読むこともあります。
求めて読む場合でも、二通りの読み方があります。ある明らかなテーマ、課題をもって求めて読むこともありますが、別の場合は、全くテーマも持てず、しかし求める気持ちだけがあって、闇雲に、自分で何を求めているのかわからないままに聖書に向かうこともあります。そしてある時突然に、自分の求めている物事を教えられることもあります。
大切なことは、ともかく生活の中で聖書と向き合うことでしょうか。生活の一部に御言葉を取り入れて生きることでしょうか。どちらかと言うと、自分が聖書を読むというよりも、自分が聖書に読まれていくことの大切さを感じます。自分が・・の場合には、結局自分中心になっていることが多いのです。聖書中心に、聖書に読まれるいきかたは、聖書中心、神中心になるということです。

わたしたちの情況は、時々刻々変わります。すべてが変化していることを認識しておく必要があります。昨日の真実は、今日の不真実かもしれないのです。本日の正義が、明日の不正義になるかもしれません。そのことをも、聖書はわたしたちに示しています。だからこそ、毎回毎回、わたしたちは、「主の御前に祭壇を築き、主にお伺いを立てる必要がある」のです。それでこそ、複雑極まりない今の社会状況のなかで、柔らかい頭で、物事に対応していくことができるのです。
やはり、聖書に親しみ、祈ることによって、神さまとの直接なホットラインを結ぶことによって、まことにあるべき生き方が可能となるでしょう。


4-3 <九段の丘>

2016年04月02日

まず石を投げ打つ
Cast the first stone.人を非難することの表現。厳密には、自分のことを棚に上げて、人の失敗や罪咎を非難する人に対しての牽制の意味を含んでいる。「あなたたちはとかく立派なことを言っているが、そんなに立派なら立派な順に石を投げたらいいだろう」
「最初の石を投げよ」と直訳できる。新約聖書ヨハネ福音書8章に出てくる「姦淫の女」の記事に由来する言葉。
当時、ある意味で新興宗教の教祖的存在であった(「改革派のリーダー」と言い換えてもよい)キリストに反感を持った既成宗教の、うるさ型のファリサイ派の人々が、キリストを試そうとして、姦通罪で捕らえられた女を連れてきた。キリストが「モーセの言ったとおりにしろ」-と答えたら、「残酷ではないか」と非難しよう、また、「大目に見ろ」-と言うなら、モーセの律法違反だと訴えよう、とあらかじめ相談していたようである。両刃の剣!どちらに転んでも非難を免れない状況に追い込んだ。少なくとも敵対者たちはそう思ったに違いない。
その時のキリストの答えは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」というものであった。
ところがこの言葉を聴いて、彼らは年長者からはじまって、一人また一人と、立ち去ってしまい、やがて罪の女はキリストと二人だけになってしまった。
キリストは女に言った。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」愛情あふれる赦しの言葉。こお箇所の英語による簡潔な表現がわたしは好きだ。Go, and sin no more.