九段教会コラム

このコーナーでは、教会からのコラムや行事等についての記事を投稿します。(不定期更新)


1-1<九段の丘> 

2016年12月31日

   三日坊主
 「かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても、それもまた、永遠の昔からあり、この時代の前にもあった。」(コヘレの言葉1:9,10)
そのような中にあって、「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(IIコリント5:17)という、み言葉を拠り所とするクリスチャンの喜びを確認できたら上々です。
 暦を新しくし、タタミ、障子を新しくしたからと言って、三日過ぎればタダの人では仕方ありません。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」(IIコリント4:16)と、日々に新しさを味わう果報者は一体だれなのでしょうか?!
 年頭に、「園丁は答えた。『ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥しをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください』」(ルカ13:8,9)と願って、ゆるしをいただき、一年の計を立て、やがて「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」(黙示録21:1)という、時の到来を望むことができていれば、それ以上の幸せはないでしょう。
 良い年をお迎えください!

メリー・クリスマス

2016年12月25日

とうとうクリスマスがやってきました。

感謝です。もちろん、サンタクロースのお誕生日ではありません。

読んで字のごとく。クリスマスはキリストのミサ、つまりキリスト+礼拝ですから、

教会に限らず、どこにあっても、キリストを礼拝する事です。

キリストを礼拝してから、騒いでください。礼拝しないで、騒ぐのはダメですよ。

わたしたちも、礼拝の後、すこし楽しく過ごします。

今日は、礼拝して、礼拝の中で、洗礼式を執り行い、洗礼を受けた方を中心にして、

聖餐式に与ります。これが、本日のメーンイベントです。天の神様のお喜びです。

零敗の後で、集会室でお祝いです。持ち寄りのごちそうをいただきます。

聖歌隊のコーラスがあり、受洗者のお友達が駆けつけて下さって、独唱をしていただきます。

そう、そう、ビンゴもしますよ。

わたしは、特製漬物とコーヒーを淹れます。お楽しみに。

九段教会牧師 たかたやすひこ


12-25<九段の丘>

2016年12月25日

                                 み旨、御心のままに
 一方通行的に与える、相手のために喜ぶことを為す。また、自分が納得するように、相手が感謝を表さなくても裁かない。右手の行った善の行いを、左手にさえも知らせない。
自分の善き行いは直ちに忘れ、相手がしてくれた親切は感謝をもって忘れないようにする。頭で、そのように考えることはたやすいが、いざ現実の世界で実行することは難しい。が、それが、わたしたちの理想とするところでもある。
 そんな時、思い浮かぶのが讃美歌536番。
      むくいをのぞまで ひとにあたえよ、
   こは主のかしこき みむねならずや。
   水の上に落ちて、ながれしたねも、
   いずこのきしにか 生いたつものを。
       あさきこころもて ことをはからず、
       みむねのまにまに ひたすらはげめ。
       かぜに折られしと 見えし若木の、
         おもわぬ木陰に ひともや宿さん。 
 お礼を期待しての親切は、本当の親切ではない。そんなことは異邦人でもしていると。イエスさまはおっしゃる。そんな安っぽい善意があふれているなら、この世は闇だ。表面的な単純な受け止め方、評価によって他人を見ずに、ひたすら主の御心がなることを信じて、誰に対しても最善を尽くす。


12-18<九段の丘>

2016年12月16日

                             キリストの産まれた場所は
 「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ福音書2:7)これは聖家族がユダヤのベツレヘムというダビデの町へ住民登録のために帰った時、マリヤが産気づいたが貧しかったのでまともな所に宿をとることができなかったことを記した聖書の箇所です。ここで<場所>と書かれている言葉は英語ではroomと訳されています。これは<余地>とも<隙間>とも訳される言葉です。電車の中なので Make a room,pleaseと言えば「すみません、詰めていただけますか」という意味になる。
 クリスマス物語で、これは何を示しているのでしょうか?それは、人々があまりにも自分や自分の家族のことばかりに気を取られていて、貧しく小さい聖家族に配慮の目をむけることもできなかったということです。それを今日の状況にあてはめてみることができます。それは・・・混んだ電車の中で本当に困っている人がいても、見て見ぬふりをするわたしたちの自分中心さであり、わたしたちの弱さでもあるのです。いつでもクリスマスの主をお迎えすることのできる心のroomが持てるように願いもとめましょう。

 『あなたにメリー・クリスマス!』


12-4<九段の丘>

2016年12月04日

チャイルドファンドの精神
日本では昔から、<施しは徳の余り>という考えがありました。つまり、無理をすることはない、余裕のあるところでほどほどにするのが、施しであり、自分の生活を切り詰めたり、家族を犠牲にしてまですることは、やりすぎだという思想があります。
 アメリカでのことです。幼い子供を抱えた、若い母親が、意味のあるボランテイアを続けるために、子供のためにベビーシッターを雇ったそうです。日本だったら、そこまでするか?と周囲から言われそうです。
戦後間もなくの頃、A先生がアメリカに留学したときのことです。ある大学で友人を訪ねた時のことです。お昼時になったので、では一緒のランチを食べるために食堂へ行こうと提案すると、「今日は月に一度のランチ抜きの日なのだよ」、との返事でした。A先生は、その理由を尋ねると、全校で一食抜いて、そのお金を、貧しい国の貧しい子供たちのために捧げるとのことでした。ショックでした。そこに福祉の原点を見、分かち合いの心を見たとのことです。 
クリスマスを間近に控え、その精神を学びたい。そもそも十分の一は神さまのものであるから、神さまにお返しするということです。直接的の場合もあれば、間接的に神さまのお喜びになる、いと小さき者のために用いることもある。—そんなことを、先週参加したチャイルドファンドのルーツでもある「ララ物資」のシンポジュウムで思い起こしました。