九段教会コラム

このコーナーでは、教会からのコラムや行事等についての記事を投稿します。(不定期更新)


1-29<九段の丘>

2017年01月30日

                                               祈りとは
 もう40年以上も前のことである。某先生は大学改革闘争の最中、学部長であった。学生たちに部屋に軟禁され改革を迫られたりした。とうとう心筋梗塞を起こし危篤状態に陥って面会謝絶。自分はプロテスタント、奥様はカトリックの信徒だったので、身内と牧師と神父だけが病室に入ることをゆるされた。
 牧師は祈った。「この方は大事な人、どうか病を癒し、一日も早く職務に復帰できますように」。だが祈りの途中で患者の心臓に変化があらわれ、このまま続けると死ぬとドクターストップがかかった。
 神父も、「この方はいつ死んでもおかしくない重病です。生きるにしても死ぬにしても神さまにお任せします」と祈った。すると彼の心臓は次第に穏やかになってきた。この先生は、人間の幸福というものは必ずしも健康と一致するものではないと、感じたという。
 祈りは願いではない。だが勘違いする。言葉に偽りはない。だが型通りすぎる。わたし(髙田)の神学校卒業時の教団議長であった鈴木正久牧師が病に倒れた。病床を訪ねて来る牧師たちの型通りの祈りや決まり切った聖書の箇所の朗読に怒り、その中にあって、唯一浅野順一先生(青山学院の旧約学の教授、美竹教会牧師)の祈りには慰められたと家族に語ったという


1-22<九段の丘> 

2017年01月21日

                                    美人は夜つくられる
 「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」(詩編30:6)
ある美容に関する文章をみていたら、この聖書の言葉が出ていた。美容上もっともわるいのが眠らないことだそうだ。だが、ぼくは美容を守ることにのみ必死になっている今の美容術には感心しない。
それより美を積極的に作り出す方を主眼とすべきだと思う。その第一は喜びではないか。喜んでいる人は輝いているので、老いも若きも美しい。
「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。」(同12)。同じ詩編30に出てくるこのことばはとても積極的である。何といってもからだを動かして喜びを表現している人がもとも美しい。
指しゃぶりをする子供の指しゃぶりを無理やりに止めさせるよりは、外で運動させるのが一番いい。指をくわえてうじうじ生きるよりは、からだを躍動させ、汗をながして生きる喜びを表したいものだ。

明日の礼拝

2017年01月21日

明日1月22日の礼拝のご案内

説教「あなたはキリストに似ていない」

第一コリント1章10~13、17

※クリスチャンって、「キリストみたいな奴」という意味じゃなかったっけ?


1-15<九段の丘>

2017年01月14日

                                                しっちゃかめっちゃか
 「あまり清潔で、整然としているのは、不自然で、息が詰まる。ボクは嫌ですね!」ある方にそう言われて、なんとなく分かるような気がした。
 自分勝手、ばらばら、いろいろ、まちまちで、不統一,うるさい、騒然としている、よごれている。騒音であふれている。なんとも言えない匂いがあるような、ないような。汚く、ごちゃごちゃしている。アンバランス、不潔っぽい。ネパールのカトマンズの街並みを思い出す。何か埃っぽくて、夜など暗くて、怖そう。人々が蠢いている。でも一生懸命、一日一日を生きている息吹が感じられ、何となく優しくて、人間らしさがある。
 権力者が、自国民は、このような考えなければならないなんて言いだしたら終わり。互いに言いたいことは言う。自分と考えが違ったら、そのことを指摘はするかもしれないが、裁いたり、決めつけたりしない。違いがあっていいと、認め合う。民主主義って、そういうものかもしれない。
 一体どこの国の誰だったか?議論して、決まらないとか、ねじれがあるから、話し合いが永遠に続いて、政策決定までいかない、と嘆いたのは?それがなくなったら政治がよくなったか?風通しが良くなったか?
 一つに束ねたがる人の気持ちも分からないわけではないが、それを強要してはいけない。主張してもいい、でも相手の主張も認めること。
 スピード制限がある道路で、スピードを出しすぎて事故を起こしたら、それが本当の自己(事故?)責任だが、ある程度の自由さとリスクは認めてのおおらかさがいい。管理、管理はよろしくない。

1-8<九段の丘>

2017年01月08日

                                 学ぶことから始まるが・・・
 教会で学ぶことは大切です。が、それは大切な第一歩です。しかし、学ぶことで終わっては何にもなりません。何のために学ぶかが問題だからです。それは信ずる道筋を見出すためです。
 では、信じることができたら、それで十分でしょうか。個人的に信じること、信じているつもりだけでは不十分です。
 信じた者は信じただけでは不十分です。バプテスマに導かれなければなりません。そのバプテスマによって、実はそれぞれがキリストの体に連なる枝になれるのです。霊的に生きるに必要な養分を直にいただくことになるのです。
 そして最後のステップが待っています。それが伝道すということです。大げさなことではありません。隣人にイエスさまのことを教えるのです。どうして、自分の中だけにとどまっていてはいけないのでしょうか?はっきりしていることがあります。それは、人は、教えることによって最大に学ぶことができるからです。別の言い方をすれば、よくわかります。親切に教えることによってひとは最大限に、その内容を理解し、自分のものにすることができるのです。