九段教会コラム

このコーナーでは、教会からのコラムや行事等についての記事を投稿します。(不定期更新)


2-26<九段の丘> 

2017年02月27日

  心を満たす
[教師や親が悪を排除することによって<よい子>をつくろうと焦ると、結局は大きい悪を招き寄せることになってしまう]
[自立ということが強調されすぎた現在のアメリカの風潮の中に<人間がいくら「自立」しても、それがすべて神に従うというのならいいのだが、神を忘れた自立になったので問題が生じてきたように思われる>]
[信頼のないところには自立はありえない。自己中心は、他を否定するか、無視するか、本当の自立は他者との関係において達成される]
以上が河上隼雄先生の『こどもと悪』に述べられている。わたしは、聖書の次の箇所を思い出す。
「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、みつからない。それで『出てきたわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの7つの霊を連れてきて、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」(ルカ11:24~26)
教師も親も、こどもたちが健やかに成長して欲しいと願っています。しかし、こころを掃除するだけでは、真の解決にはなりません。場合によっては、むしろ悪くなることが指摘されます。からだを鍛えることも、頭を鍛えることも悪くありません。が、最も大切なことは、あなたのこころを真空にすることではなく、まことの神様との関係で満たしておくことです。

2-19<九段の丘>

2017年02月18日

Cast the first stone.
人を非難すること。厳密には、自分のことは棚に上げて、ひとの失敗や罪咎を非難する人に対しての牽制の意味を含んでいる。「あなたたちはとやかく立派そうなことを言っているが、そんなに立派なら立派な順に石を投げたらいいだろう」という意味で「最初の石をなげよ」と表現した。新約聖書ヨハネ福音書8章に出てくる「姦淫の女」の記事に由来する言葉だ。
当時、あるいみ新参者(「改革派のリーダー」と言い換えてもいい)であったキリストに反感をもったユダヤ教の、うるさ型のファリサイ派の人々が、キリストを試そうとして、姦通罪で捕らわれた女を連れて来た。<モーセの言った通りにしろ>と言うなら、残酷ではないかと非難しよう。また<大目に見ろ>と言うなら、モーセの律法違反だと訴えようと手ぐすねを引いて構えていた。両刃の剣。どちらに転んでも非難を免れない状況に追い込んだ。(少なくとも敵対者たちはそのように考えた)
その時のキリストの答えは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、先ず、この女に石を投げなさい」というものであった。
ところがこの言葉を聴いて、彼らは年長者からはじまり、一人また一人と、立ち去ってしまい、やがて罪の女はキリストと二人だけになってしまった。
キリストは女におっしゃった。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もうい罪を犯してはならない」愛情あふれる赦しの言葉。この箇所の英語による簡潔な表現がいい。 Go,and sin no more.


2-12<九段の丘>

2017年02月12日

                                白髪は・・・ 
 近藤文子さんが、96歳で召されました。もう言葉を交わせなくなったと思うと、淋しい限りです。
 「染めたらどうですか?」「かつらも悪くないですよ」と、言われたT牧師「いや、結構です。いちど嘘をつくと死ぬまで嘘をつかなければなりませんので。まっぴらごめんです」だって。
 「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。」(箴言16:31)この新共同訳の聖書は欲張りだと思う。口語訳聖書では、確か「白髪は栄えの冠だ」とあった。そこですかさず、「それなら、ハゲは栄えの輝きだ!」と、合いの手を入れられたのに。それで、バランスが取れて丁度いい。
 
  「白髪の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を恐れなさい。」とある。(レビ記19:32)最敬礼してシルバーシートを譲るような精神がなければ、この世の中ダメになっちゃう。おい、おい、そこの若者、疲れているのは分かるけど、寝たふりは困るよ。
 「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしは担い、背負い、救い出す」」(イザヤ46:4)誰が責任を負う、と言って、神さまがそうおっしゃってくださる。ありがたい!白髪はこの神さまを呼び込むしるしなんですって?じゃ、ハゲは祝福から除外されるのかしら?ソラまたひがんだ。
 近藤さんは、おしゃれな、白髪の素敵なご婦人でした。 あした、お別れです。

2-5<九段の丘> 

2017年02月04日

                                           さ か な 
 キリスト教のシンボルは何といっても十字架でしょう。ところが、<魚>もシンボルとして用いられます。以前触れたことはありますが、なお疑問に思われる方もいらっしゃるようなので、ここで改めて説明しておきましょう。—迫害時代、信者同士は十字架というシンボルをもってお互を確認しあいました。最初はそれでよかったのですが、やがて十字架は広く知られてしまい、秘密の暗号の役割を果たさなくなりました。
そこで登場してきたのが魚です。イスラエルの言葉では<イエス・キリスト、神の子、救い主>を「イエスース/クリストウス/セオウス/フュイオン/ソーテール」と言います。このアルファベットの頭の部分だけを集めて、並べるとイクス―スと読め、それが<魚>という意味になるのです。そこでキリスト者は魚も信仰のシンボルとして好んで用いることになったのです。 
 さらに、舟はこの世に漂う教会という信仰共同体を指し示すところから、教会のシンボルとしてしばしば使われます。
 興味深いのは<さ・か・な>という発音は、イスラエルではたまたま、「危ない」という意味になります。エルサレムの街角で、「さかな」と叫ばれたら、危険を察知して即座に反応してください。