九段教会コラム

このコーナーでは、教会からのコラムや行事等についての記事を投稿します。(不定期更新)


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5-28<九段の丘> 

2017年05月27日

                                         子どもの心を
 「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、
     決して天の国に入ることはできない」(マタイ18:3)
 子どもはかわいいものである。特に1歳半前後の、ようやく片言がはなせるようになり、いわれたことを、簡単なことなら一生懸命にやろうとする頃の幼児の純真さ、誠実さ、無私といった美しい心情には神さまに近いものが感じられて頭が下がる。これは人間にとって最も大切なものではないだろうか。
 けれども、この大切な心情は子どもが成長していくにつれて薄れていく。逆に欲、虚栄心、競争心、傲慢が芽生えてくる。この心情はある程度自分の向上にも役立つが、多くはその方に力が入りすぎて醜い争い、戦い、ひとも自分も傷つけ、天国とはほど遠い人間になってしまう。それでも、何も知らない幼児に与えられているこの純真な、素直な誠実さ、無私というものが人間の根本的な、大切な心情であることを聖書は教えている。
 大人になってもこの幼な子の心を持っている者は天国に行ける。天国とは普通死後の世界をいうのだが、現実の人生でもその心を持つ人が誰からみても立派な美しい人生を送ることができることを暗示しているように思う。純粋な豊かな心を持ち続けよう。

5-21<九段の丘>

2017年05月21日

        教会の絆
家族がいると、一人暮らしにはないトラブルが、起こったり、巻き込まれたりする。それを肯定的に受け止めるか、ただ単純に迷惑と思うのか。考え方次第なのかもしれない。夫婦だけでも、生きていく中で、多少の問題は起こる。子どもや孫がいて、更にその連れ合いができて、相手方の家族との関わり合いが生まれることになる。楽しいことも多々あるが、面倒なこともある。
 面倒なトラブルなどにどのようにかかわるのか?すべて拒絶し切り捨ててしまうやり方もなくはない。が、それでいいと言い切れるか?トラブル続きも困るが、だからと言ってすべてキリステ(切り捨て)教を決め込むか。
 ただ誰もが分かっていることがある。<絆>とは、何もないところからは生まれないし育たない。家族であることで、いろいろな問題に遭遇し、そのため振り回され、時間や費用を費やすことが出てくる。それに前向きに取り組むことから、<絆>は産み出される。
 教会は罪びとたちの集まりだと言う。口先で言うのは簡単だ。実際、面倒な事でもある。一歩間違えると、裁き合いになり修羅場にもなる。それを避けて通る人もいる。認めない教会の群れも多々ある。けれど、そこからは何も生まれない。教会員が家族になるのは、それでも教会に留まり、泥臭く面倒な友とのかかわりから逃げない事ではないか。主イエスさまが人気があるのは、逃げないで友の足を洗ったからではないか(ヨハネ13:1~20)。

5-14<九段の丘>

2017年05月13日

                                  祈りはバトル
 父ダビデから王権の移譲は子ソロモンになされます。素晴らしいのは、その際の信仰的なぶれない力強いアドバイスです。
 「勇気をもって雄々しく実行せよ。恐れてはならない。おじけてはならない。わたしの神、神なる主はあな共にいて、決してあなたを離れず、捨て置かず、主の神殿に奉仕する職務をことごとく果たさせてくださるからである。」(歴代誌上28:20)
 恐れるな・・・、実行せよ・・・、神さまが共にいてくださるのだから・・・。逆の言い方をするなら、<それがすべて、だから恐れないで、目の前にあることを、しっかりと実行していきなさい>
 ただ生活を賭け、命がけで祈り切るためには、その祈りのテーマが本当に神さまからのものであるかを確認する必要があります。神さまからでなく、悪霊、サタン、自分の欲望から出たものであるかどうかを見極めることです。
 信じて祈ることは、戦いです。不安、不信、不信仰との闘いです。それに勝利した者だけが、素晴らしい栄冠を勝ち取ることができるのです。

5-7<九段の丘>

2017年05月08日

                              少年よ、大志を抱け!
 あのクラーク先生が、札幌農学校を去るときに、学生たちに呼びかけた最後の言葉と理解し、Boys, be ambitiousを「少年よ、大志を抱け」と翻訳され日本中に広まった。
 しかしambitiousとは、もともと「大志」というよりも「野心がある」という意味が強く「野望に燃える」といった意味で、あまり上等な表現ではなかった。
 わたしが、聞き、理解したのは、上記の言葉の後に続いて、・・・in Christがついていたという説明だった。それならより上等な表現になると思って納得しておりました。ああ、そうか。それなら野心的でなく、大きな志ということで、受け入れやすいと思ったものでした。ところが、更なる説明を発見しました。本当はそうではないらしいというのです。さらに異なる理解があるというのです。それが以下の言葉です。
  Boys, be  ambitious  for  the  attainment  of  that  a man  ought  to  be!「青年よ、人間のあるべき姿に到達するように、大きな志を抱け!」という意味で、人格の完成を謳っているというのです。ずいぶんと従来教えられてきた内容とは異なります。多分、これが本当なのでしょうか。これが多分クラーク先生の本音なのでしょう。
 それほどに、ひとの言葉は聞く者によっても勝手に理解されるのですね。