九段教会コラム

このコーナーでは、教会からのコラムや行事等についての記事を投稿します。(不定期更新)


10-29<九段の丘>

2017年10月28日

                                イエスのからだを食う  
 「取って食べなさい。これはわたしの体(からだ)である。」(マタイ26:26)

 イエスのからだを食う、つまり教祖を食ってしまうというのだ。こんな具体的なことはない。キリスト教の信仰が観念でないことがこれでよくわかる。
 このあいだ酒を飲みすぎて吐いたのだが、もどしたものをよく見ると、何を食ったか判らないほどごちゃ混ぜになっていた。食うという事は、相手の命を奪い、元の形態を破壊し、ドロドロにしてから含まれている栄養を吸収することだ。律法主義者や教条主義者にはそこがどうしても理解できないらしい。(教えられ、学んだところを)形を崩さないで、そのまま丸飲みにするものだと思っている。

 秋になると野原のススキにコマチグモがかわいい巣をつくる。この巣の中で実はすさまじい愛のドラマが展開しているのである。卵からかえった無数の子グモは母に取りつき、母親を食べて自分たちのいのちの糧とし、この世での第一歩を踏み出すのである。覗いた人が助けようとすると、親グモはその指にかみついて抵抗するという。
 キリストの信仰は飾り物ではない。理屈ではない。イエスの肉を食らい、その血をすすって命にあずかる信仰なのである。
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 以上は、SM師が書かれたものからの引用である。二日酔いになっても、ただでおわらないところがすごい。信仰的な悟りを得ている。


10-22<九段の丘>

2017年10月21日

                         自由とは?
★「言論の自由を与えよ、というプラカードの下に、いくらたくさんの人が行進しようと、自分の苦心創作なる言論を誰も持っていなければ、自由の死骸を求めて、歩いているようなものである」(評論家・小林秀雄)
★「政府の支持者だけの自由、党員だけの自由は、それがどれほど多数の自由であっても、自由ではない。ほんとうの自由は、いつでも、ただ、別なふうに考える人間の自由だけである」(平和主義者・ローザ・ルクセンブルク)
★「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であて、何人にも従属する」(宗教改革者マルチン・ルター)

 「ほんとうにあなたは自由ですか」と問われて、ハイと答えられる人が何人いるだろう。家庭でも学校でも、<自由>が欲せられるほどに、自らの苦心創作になるものを持っているだろうか。また、自分も認めてほしいのなら、どうして「別なふうに考える人間の自由」も認めてあげないのだろうか。認める勇気を。
聖書の自由とは何か。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。」(ガラテヤ5:1)「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召しだされたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯される機会とせず、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』と命ずる。だから、互いにかみ合い、共喰いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。」(同13-15節)

それほどに<自由>は大切であり、難しいもの。身の回りの<自由>を再検討してみてはいかが?


10-15<九段の丘>

2017年10月14日

                                      祈 り
1.選ばれて公職にある人々のために。「主よ、わたしたちの指導者たちを祝福してください。彼らが謙虚で公正に権力を行使し、困っている人々に奉仕できるようにお助けください。弱者や無力な人々を守る政策を実行できるように、彼らをお導きください」。

2.学校のために。「お父さま、すべての教師を祝福してください。わたしたちの子供に教育を授ける彼らに知恵と思いやりの心をお与えください。生徒たちが学び、成長していくのを助けてください。彼らを安全に守り、あなたの近くにお引き寄せください」。

3.隣人のために。「イエスさま、近隣のすべての家庭を祝福し、あなたの平和で満たしてください。すべての家庭が、親と子が互いに愛し合い、お互いのために命を惜しまぬミニ教会となりますように。すべての家庭が誘惑と危害から守られる避難所となりますように」。

4.わたしたちの教会のために。「聖霊なる神さま、わたしたちの牧師、長老・幹事・役員、すべての信者たちを祝福してください。わたしたちが互いに愛し合いますように。わたしたちを強め、わたしたちの町であなたの愛の証し人となることができますように強めてください。あなたのことを人々に告げる知恵と勇気をあ与えください」。

5.現代の平和のために。「主よ、わたしたちの街に平和と一致をもたらしてください。差別、貧困、犯罪、暴力によってもたらされた被害を回復してください。主よ、すべての意見の不一致をいやしてください。あなたの愛がどんなに暗い場所にも行き届きますように」。

『イエスさま、あなたの助けによってわたしが自分の町のために毎日祈ることができますように』                           
                                            (『毎日の黙想』2017.7.18より翻案)


10-8<九段の丘>

2017年10月07日

                                       僧と女性
 ふたりの仏教僧が、僧院へ行く途中、川岸で大変美しい女性を見つけました。ふたりのように、その女性も川を渡りたがっていましたが、水は深すぎました。そこで僧のひとりが彼女を背負い、川を渡してやりました。
 仲間の僧はひどく憤りました。まる2時間、<聖なる掟>をなおざりにしたと責めました。おまえは僧であることを忘れたのか?なぜ女の体に手を触れたのか?おまけに女を背負って川を渡ったではないか?人々はなんと言うだろう?<聖なる宗教>の評判を落としてもいいのか?など、など、など。
 掟を破った僧は、いつ終わるともわからぬ説教を忍耐づよく聞いていました。ついに声を上げました。「兄弟よ、わたしはあの女性を川岸に下ろしました。あなたはいつまで彼女を運んでいるのですか?」
 アラブの神秘家、アブ・ハッサン・ブジャンジャは言っています。「罪の行為は、罪の望んだり思ったりすることよりはるかに害が少ない。一時的に快楽に身を任すことと、それを心で絶えず思い続けることとは、完全に違うのだ。」
 宗教を信じる人々が、他の人の犯す罪について絶えず考える時、それは、罪の行為が罪人に与える以上の快楽を自分に与えているのではないか。
                                        (アントニー・デ・メロ『小鳥の歌』より)

  以上は、イエスさまの以下のお言葉に通じるものがある。「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者は誰でも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5:28)
  行いの罪にまさる思いの罪、他者をさばく罪の深さを考えさせられます。


10-8<九段の丘> 

2017年10月06日

                            僧と女性

ふたりの仏教僧が、僧院へ行く途中、川岸で大変美しい女性を見つけました。ふたりのように、その女性も川を渡りたがっていましたが、水は深すぎました。そこで僧のひとりが彼女を背負い、川を渡してやりました。

仲間の僧はひどく憤りました。まる2時間、<聖なる掟>をなおざりにしたと責めました。おまえは僧であることを忘れたのか?なぜ女の体に手を触れたのか?おまけに女を背負って川を渡ったではないか?人々はなんと言うだろう?<聖なる宗教>の評判を落としてもいいのか?など、など、など。

掟を破った僧は、いつ終わるともわからぬ説教を忍耐づよく聞いていました。ついに声を上げました。「兄弟よ、わたしはあの女性を川岸に下ろしました。あなたはいつまで彼女を運んでいるのですか?」

アラブの神秘家、アブ・ハッサン・ブジャンジャは言っています。「罪の行為は、罪の望んだり思ったりすることよりはるかに害が少ない。一時的に快楽に身を任すことと、それを心で絶えず思い続けることとは、完全に違うのだ。」

宗教を信じる人々が、他の人の犯す罪について絶えず考える時、それは、罪の行為が罪人に与える以上の快楽を自分に与えているのではないか。
                                        (アントニー・デ・メロ『小鳥の歌』より)