九段教会コラム

このコーナーでは、教会からのコラムや行事等についての記事を投稿します。(不定期更新)


12-17 <九段の丘>

2017年12月15日

                     余地、機会、可能性を・・・
「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ福音書2:7)

これは聖家族がユダヤのベツレヘムというダビデの町へ住民登録のために帰った時、マリヤが産気づいたが貧しかったのでまともなところに宿をとることができなかったことを記した聖書の箇所です。ここで<場所>と書かれている言葉は英語ではroomと訳されています。これは<余地>とも<すき間>とも<可能性>とも訳される言葉です。電車の中などでPlease make a room for me.<どうぞ、場所を開けて座らせていただけませんか>という時にも使われます。

では、クリスマス物語では、これは何を示しているのでしょうか。人々があまりに自分や自分の家族のことばかりに気をとられていて、貧しい小さな聖家族に配慮の目を向けることができなかったという事です。それを今日の状況にあてはめてみることができます。混んだ電車の中で本当に困っている人がいても、見て見ぬふりをするわたしたちの自分中心さであり、わたしたちの弱さでもあるのです。いつでもクリスマスの主をお迎えすることができる心のroomが持てるように願い求めましょう。「あなたにも、メリークリスマス!」


九段教会クリスマス・コンサートのお知らせ

2017年12月14日

日時:1217日(日)午後2時から、

会場:九段教会礼拝堂

出演:ハンドベル・コワイア<アンダンテ>をお迎えしてのコンサートです。指揮は青学初等部宗教主任の小澤淳一先生です。

                    <コメント>

わたしとハンドベルとのかかわりはこれまでもいくつかありましたが、今回は特に楽しみにしています。

 非常勤講師として教えた和泉短期大学では下田先生が指導されるコワイアがありましたし、頌栄女子学院の卒業謝恩会での卒業生の演奏も印象深いものでした。青学でも聴いたことがあります。

つい今月5日に名古屋へ出張し、そこで50年前にケリー先生という方が金城学院に日本ハンドベル・コワイア第一号をおつくりになったことを知り、感激いたしました。

 このPR文をお読みになった方は、ぜひお出かけください。入場無料です。座席は100程です。満員になる可能性もあります。1330分開場です。

(九段教会牧師・髙田和彦)


12-10 <九段の丘>

2017年12月10日

                                        処女降誕
  「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7:14)

 旧約聖書の救い主誕生の預言です。ここで「おとめ」とはアルマーと言い「若い女」というほどの意味です。必ずしも処女とは言えない。けれども、この福音書を書いたルカは「神には、なんでもできないことはない」ことに注目し、無から有を呼び出す神さまの創造行為を驚きをもって強調したかったのだろうと推察します。誤解と躓きを恐れずに表現すれば。
 クリスマスにおいて、イエス・キリストが私生児のように、また馬小屋に生まれることによって、実はすべての人々、底辺の人々までに希望の光を投げかけようとする意図をくみ取ることができるなら、わたしたちは幸いでしょう。
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 来週は恒例の九段教会クリスマス・コンサートが開かれます。午前中は主日礼拝ですが、午後2時から4時まで、ハンドベル・コワイア<ANDANTE>の皆さんをお迎えして天使の音楽を聞かせていただきます。指揮は青山学院初等部宗教主任の小澤淳一牧師で、メンバーは主に東京のクリスチャンスクールなどで学生時代にハンドベルクラブで活躍してこられたOGの方々と推察しております。今から楽しみにしています。


12-3 <九段の丘>

2017年12月07日

真実に目を注ごう・・・

主イエスさまのご降誕をお迎えするにふさわしいキリスト者のあり方とは、なんと単純であり、それでいて何とむずかしいことか。決めてのポイントは、ふさわしいかどうかということ。別の言いをするなら、赤ちゃんイエスさまが飼い葉桶の中から、わたしたちを御覧になって、喜んでくださるか、それとも失望なさるか。それが基準になるということでしょう。

社会の底辺である、馬小屋に主はお生まれになった。それは理想的な誕生の場所だったのでしょうか?とんでもありません。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2:7)そうするしかなかったのです。世間は、貧しい聖家族をあたたかく迎える心がなかったのです。自分の幸せだけを追い求めていたために、助けを必要とする人々へのやさしさがを失っていたのです。

街の宿屋で、ホテルで飲み食いする豊かな人々は、そこに佇む聖家族に気が付かなかったのです。いや、彼らには見えなかったのでしょう。しかし、それこそが問題だった。見えなかった、分からなかったでは済まされないことはあります。

その地方で気が付いたのは、野宿しながら羊の番をしていた羊飼いたちだけだった。自分たちと同じような境遇の人たちが、仲間同類として見えたのでしょう。