見ないのに信じる人は、幸いである

十字架上で死んだ主イエスは三日後に復活された。そのことを知らなかった弟子のトマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を針跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹にいれてみなければ、わたしは決して信じない」(ヨハネ20:25)。と言った。それから八日後にトマスの前に現れた主イエスは「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい」(ヨハネ20:27)と語った。そして「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」(ヨハネ20:29)。と語るのです。私たちの肉の目は、復活の主イエスを見ることが出来ないでしょう。私たちも見えないから信じることは出来ないと言うかもしれません。しかし、キリスト教の信仰は「見ないのに信じる信仰」なのです。主イエスを見ないで信じることは、すばらしい喜びにあふれることだからです。言い換えれば、見えない幸いを信じて生きることです。目に見えるこの世の信仰は時間と共に朽ち果てていくものだからです。しかし、主イエスを信じる信仰は永遠に消えることのない幸いなのです。

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です