主日礼拝要約日時2020年5月10日 10:30分~


場 所 九段教会         聖書箇所 ヨハネによる福音書15章18節-27節 新共同訳
説教者 田名尚文         讃美歌  545,6,181, 187, 542
説教題 「人は理由もなく憎む」
 日本のキリスト者が1%未満だとすると、多くの人々がキリスト教に偏見を持っていると言えるでしょう。偏見の実態は無知によるものだとしても、その人々に全く責任はないのだろうか。今日の聖書箇所では、主が決してそうではないと語られます。主は「わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪がなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行なわなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。しかし、それは『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである」(15:22-25)。確かにその理由は、実際に主の語られた言葉を聞いて、なさった業を見たのに信じなかった分けです。だから彼らに責任があると言われます。主が彼らに語られたとはどういう内容でしょうか。ご自分は、「父(神)がわたしをお遣わしになった」(5:36)のであり「わたしと父とは一つである」(10:30)。だから、ご自分すなわち「わたしを見た者は、父を見たのだ」(14:9)。と言われました。このように主イエスは、明確にご自分が父である神から遣わされた神の子であると主張されました。それだけではありません。主は、ご自分が十字架上に架って贖いの死を遂げられることも語っています。ニコデモとの会話で、「モーセが荒れ野で蛇を上げられたように、人の子もあげられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(3:14-15)。また祭りの時、礼拝するためにやってきたギリシャ人に、主が語られました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12:23-24)。このように、主イエスは、ご自分がだれなのか、そして人々のために贖いの死を遂げられることを語られました。それなのに、その主を信じないとしたら、もはや弁解の余地がありません。罪に問われても仕方がありません。その人は、主もそして父なる神をも、理由もなく単に憎んでいるとしか言いようがないからです。ところで、主イエスが地上生活を歩まれた当時の人々は、確かに、罪を免れることは出来ませんが、今の私たちは事情が違うから罪に問われないと考えたら大間違いです。私たちも同様に「理由もなく」主イエスを憎んでいるからです。私たちにはこの世のどんな書物よりも多く頒布されている聖書があります。ですので、全ての人はその責任を免れることが出来ないのです。主は私たちの内に住んでくださいます。私たちに語るべき言葉を与えてくださいます。ですから恐れることはありません。私たちが主に救われた恵みを証しすればよいのです。主の平安を心からお祈りいたします。この祈り主イエスの御名によってお捧げ致します。アーメン

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