カテゴリー: 特集主日礼拝要約日時2020年5月24日 九段教会 特集

集会名 九段主日礼拝(要約)  2020年5月24日 

聖書箇所 ヨハネによる福音書7章25節-39節 新共同訳

讃美歌  545,8,158, 187, 544

説教題 「生きた水の流れ」

仮庵祭の境内で主イエスは、大声をあげて語ります。「あなたたちはわたしを知っており、またどこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである」(28節)。この冒頭の言葉は、「あなたたちはわたしを知っており」と訳されています。しかし、実は、「わたしを深く知っている訳ではない」と言う意味が潜んでいます。主イエスは、ご自分が天の父である神から出た者、つまり神の子であって父なる神から遣わされ、天からこの世に来たのだと語っています。そこで、この言葉に意表を突かれた人々は主イエスを捕らえようとします。しかし、多くの群衆は主イエスを信じたと聖書に書かれています。ところが、だれも「手にかける者はいなかった」のです。それは「イエスの時はまだ来ていなかったからである」(29節)。つまり、ここでは主イエス・キリストが十字架上につけられ、贖いの死を遂げられた時のことを指しているのです。私たちは、だれでも自分のやっていることの間違いに気づくことがあると思います。その時、良心の呵責を感じます。けれどもその時に、悔い改めることもしない。救いを求めても遅すぎて既に天の門が閉ざされしまうことがあるのです。しかし、今は違います。今はまだ天の門は開いています。ですからそうではない今、主イエスを信じて、自分の救い主として崇め罪から救っていただかなくてはなりません。今のように自由に信じることの出来る時がいつまでも続く分けではないからです。そしてまた、仮庵祭の最後の日に、主イエスは更に大声で語ります。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。/ その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(37-38)。サマリヤの井戸の傍らで主が、一人の婦人と交わされた話しを思い起こします。実際に井戸の水を題材にしていますが、ここでは霊的な水のこと意味しています。ですからそれは、のどが渇いているのではありません。心が渇いているのです。つまり、私たちは欲望を持っています。欲望そのものが悪であるとは言っていません。しかし、欲望が満たされれば人々は幸福になれると信じています。果たしてそうでしょうか。お金・物・地位・名誉を手に入れても現実に心が飢え渇くことがあります。私たち人間は、神のかたちに似せて創られています。ですから、神に立ち帰るまで満ち足りることがないのです。神のもとから離れて罪を犯している人は不安と苦悩でおののき続けます。罪の赦しを経験することなしに、渇きが癒されることがありません。主は生きた水が川となるように私たちの心の渇きを癒してくださり、心に平和を与えてくださいます。主の平安を心からお祈りいたします。この祈り主イエスの御名によってお捧げ致します。アーメン

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