私たちキリスト者が目指す目的は、造り主である神様を知り、崇めるということです。これが出来ていないなら、他のあらゆる事において問題がなくても、人生は根底から崩れてしまうことがあります。
聖書において「神を知る」ことは、単なる知的欲求を超えて、神様との人格関係の中に生きて行くことを意味します。具体的には神を愛し、その御言葉に服従する生き方をすることです。
身近な例では、主日礼拝においてそれを実現しています。私たちが神様を心から礼拝することは、造られたものとしての当然の責任であり、また大きな喜びです。礼拝において、人間は真実の愛に触れ、神様の恵みの中に生かされていることを知るのです。その神様との交わりに生かされて、神様の御心を命のある限り行うという生き方が私たちの人生なのです。