信仰生活にとって洗礼はどうしても避けて通れません。礼拝に出席して聖書を読み、信仰を学んでいきますと、洗礼が大きく立ちはだかります。そこで、誰でも受洗すべきか悩むものです。そこで牧師の私はこのように言うことにしています。まず、洗礼は結婚式のようなものです。すると、「結婚式は形式的なものだから、する必要がない。二人が愛し合って仲良く生活をすればよい」と主張する人がいます。
しかし、普通の人は結婚式を挙げて、新しい生活を始めます。また結婚式を挙げることによって、二人が夫婦として助け合い愛し合うことを人々の前で誓い、公にします。もしも、二人が結婚式を軽視して同居生活をするだけなら、夫婦としての自覚がなく、結婚生活の恵みも成長も望めないでしょう。同様に洗礼は、キリストとの新しい生活の出発点です。もちろん、信仰生活は洗礼を受けなくても続けられますが、そこには信仰者としての自覚が起こりません。また洗礼は、復活の主イエスがお命じになられたことです。